🗓 2025年08月02日

吉海 直人

「三行半」という言葉をご存じですか。それは江戸時代の制度・慣習であり、男尊女卑の社会において、夫から一方的に突きつけられる離縁状のことです。そこに女の悲哀や忍従といったマイナスイメージが付与されてきました。
 ところが最近の研究によって、それは明治政府が良妻賢母志向のために植え付けた幻想であることが明らかになりました。要するに三行半の役割は離縁状ではなく、むしろ再婚許可証であり、また復縁拒否状でもあったからです。これによって三行半のイメージが180度転換しました。
 確かに三行半は夫から一方的に渡されるものですが、そこに離縁の理由は一切書かれていません。あるのは別れた妻が今後誰と再婚しようとおかまいなしということだけです。これに連動して、結婚の際に妻が持参した金品はすべて妻に返さなければなりませんでした。それだけではありません。三行半は必ず夫用の控えも作られます。この控えがないと、夫にしても再婚できないばかりか、密通とみなされることになるからです。
 ところで離縁状の名称としては、三行半以外に「いとまの印」・「暇状」あるいは「去状」などがあげられます。この場合、決まった書式があったわけではありません。そもそも「三行半」という表現は、書式がまさしく三行半になっているからでした。しかしながら現存する離縁状多様で、二行半や四行半・七行半などもあります。そのため従来は徐々に三行半という名称・書式に定形化していったと説明されていました。
 この三行半の歴史的研究を参照すると、今のところ元禄9年(1696年)の「相渡シ申手形之事」が一番古い現物のようです。もともとこういったものは長期保存されなかったのかもしれません。それに対して文学側にはもっと古い資料があります。たとえば明暦3年(1657年)刊の山岡元隣作『他我身之上』(京都・秋田屋平左衛門板)の第三巻に、「つゐに其女房も三行り半でらちをあけ」とあります。また宗因(西山豊一)の『宗因千句』(寛文13年版)に、「一筆に三くたり半の末の秋」ともありました。少し遅れて井原西鶴作『懐硯ふところすずり』(貞享四年序)には、「暇をやるぞ只今帰れと立ながら三行半さらさら書て」とあり、また元禄九年刊の花洛酔狂庵作『好色小柴垣』(京都・升屋板)の第五巻にも、「三行り半のいとまの状をさらりと書いて」と出ています。
 これによって新たな疑問が生じました。文学では最初から三行半で定着しているからです。もし形式が決まっていないのなら、三行半とは称していなかったのではないでしょうか。もう一つ、これまで三行半の現物は関東でたくさん発見されていたことで、関東始原説が優勢でした。しかしながら文学資料はすべて関西に集中しており、関西始原説の有力な根拠といえそうです。
 こうした中、元禄5年(1692年)頃に刊行された『願学文章』がみつかりました。この本は諸手形証文の雛形集ですが、その中に「五 離別条之事」として三行半の雛形が掲載されていたのです。これまでは文化三年(1806年)刊の『書翰用文手形鑑』が版本最古の例とされてきました。それが『願学文章』の出現によって、一気に110年以上も遡ることになったのです。三行半の雛形が出版されるということは、その需要(離縁)が多かったからではないでしょうか。しかもこれによって、版本の方が肉筆の現物よりも年代が遡るという奇妙な逆転現象まで生じてしまいました。
 さて江戸時代というと、「貞女二夫にまみえず」といった儒教的な良妻賢母像が強くイメージされていますが、実際には必ずしもそうではありませんでした。たとえば武家女性の婚姻に関する統計によれば、当時の離婚率は11パーセント強で、しかもそのうちの59パーセント弱が再婚しているとされています。因みに1983年の日本の離婚率はそのわずか十分の一の1、59パーセントです。単純な比較はできませんが、11パーセントというのは異常に高い数値であったことがわかります。
 では江戸時代の女性たちは、今と比べてずっと不幸だったのでしょうか。そう考えるのはいささか短絡のようです。現に女性の権利が認められている先進国ほど、高い離婚率を示しているからです。それだけでなく、江戸時代は離婚率と同じように再婚率も驚異的に高かったことを見逃すわけにはいきません。
 当時の女性達は機織などで現金収入を得ていました。そのため再婚を希望する男たちが多かったといわれています。だからこそ再婚許可証たる三行半の必要性が存したわけです。現在の社会情勢はそれにようやく近付いているように思えます。こんな時だからこそ、三行半について見直すいい機会ではないでしょうか。