🗓 2022年12月22日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

東照子という名前を聞いて、すぐに会津との関りがおわかりでしょうか。東という姓は東龍太郎と結婚してからのものです。その前は山川照子でした。もうお分かりですね、彼女は山川健次郎の娘(三女)だったのです。
東龍太郎は東大医学部出身の医師で、長年東大で教鞭をとった後、東京都知事にもなった人です。その妻となった照子が、書き残したものを息子の健彦が『吾亦紅』というタイトルの本にまとめて自費出版していました。その一つに「会津もん」というエッセイがあるのですが、なんとそこに板かるたのことが書かれていたのです。
年の瀬が迫る中で、子供のころの正月の風景を追想した照子は、山川家のお正月を書き綴っています。その中に、

年賀の方も大方お帰りになってからは、きまってカルタ取りがはじまる。これには母(りゅう)も加わってくれて、賑やかな事だった。第六天の奥方様のお筆になる木札のカルタは、何の木でつくられたのか実によく飛び、幼心にもほんとうに美しく見えた流れるようなお筆の跡が今も目にうかぶようになつかしく「待ったり」と叫ぶ声と共に、ついこの間のように思い出されるのである。この会津風のカルタ会は、決して上の句はよまない。下の句をよんで下の句をとらせるのである。そして札は木である。よそのおうちの普通の紙カルタが、私には不思議のように思われてならなかった少女時代であった。
さすがに会津ぶりで、実にこの源平合戦も勇壮そのものであったが、これにも勿論私は「みそっかす」で、もっぱらお蜜柑やお煎餅にばかり手を出していたのである。
睡る時間がくれば容赦もなく寝かされてしまうのだが、しばらくでも皆さんと一緒に仲間顔出来るうれしさは大変なものであった。
このカルタ会に加われた方で御在世の方も大分少なくなったが、その昔、東大の棒高跳びや競争のチャンピオンとして活躍された藤井実様(東大法学部出身の外交官)は今も御健在とたしか承っている。この方はいわゆる「会津もん」ではないが、きっと「会津もん」の書生さんのお友達であったに相違ない。

(128頁)

とあります。使われていたのは手書きの板かるたで、「第六天」というのはこの記事の前に、

私はいつも第六天の松平家のお邸内に住む父の従弟の飯沼家に預けられるのが常だった。そして御殿に伺って四位様(容大様)や奥方様に可愛がって頂いたり

とあるので、容大の奥様である松平鞆子の直筆なのでしょう。

取り方は会津風ということで「下の句をよんで下の句をとらせる」と明記されています。また「源平合戦も勇壮そのもの」とあることから、二手に分かれていたこと、かなり荒っぽかったことが察せられます。そのことは札が「実によく飛び」とあることからも納得できます。
この記事は明治31年生まれの照子が書いたものですから、明治40年前後の記録ということになります。父健次郎は明治44年に福岡に転居しているので、それ以前なら東京市小石川の邸か豊島群巣鴨村の新居でのことでしょう。少なくとも会津以外で板かるたを取っていたことがわかる貴重な資料といえます。
なおこの資料は、昭和女子大学の遠藤由紀子氏に教えていただいたものです。会津藩関係者のエッセイなどに、まだ板かるたの資料が埋もれている可能性があるので、是非探してみませんか。