🗓 2023年09月02日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

会津に行った際、いろんな人から「会津の三泣き(三度泣き)」の話を聞かされました。それは次のようなものです。
 1転勤などで他県からはじめて会津若松に移り住んだ人は、最初、よそ者に対する会津人のとっつきにくさに泣かされる。
 2やがて会津での生活に慣れてくると、会津人の温かな人情に触れてうれし泣きする。
 3そして会津を去る時には、情の深い会津人との別れがつらくて三度目の涙を流す。
 これがいわゆる「会津の三泣き」です。ただしこれは、観光などで短期間会津若松を訪れた人にあてはまるものではありません。転勤・永住などで会津若松に住民票を移し、長く居住した人が対象になっています。
 ではいつごろからそういわれているのかを尋ねたところ、どうもはっきりした答えは戻ってきませんでした。どうやらそんなに昔(江戸時代)から言い伝えられたものではなさそうです。そこで調べてみたところ、昭和51年1月6日の朝日新聞の福島版に、郷土史家の宮崎十三八氏の記事掲載されていることを知りました。まさか宮崎氏の名前が出てくるとは予想もしませんでした。その記事の中に「会津の三度泣き」という付言が出ており、今のところこれがもっとも古い資料ということになっています。もしそうなら、「三泣き」よりも「三度泣き」の方が古くて正式な言い方ということになります。
 この記事で宮崎氏は、転勤の多い新聞記者が言い出したことだとしています。もともと地元の人ではない他県からの移住人の言だったのです。これで間違いなさそうですね。とすると、今から六十年近く前からいわれるようになったことになります。では何故会津でいわれるようになったのかについては、どうしても会津の負の歴史を踏まえて、排他的な県民性をあげる人が多いようです。記事にも「排他性と人情と別れと」「気心知れれば親類なみ」と書かれています。当たらずといえども遠からずというところですね。
 試みに「三泣き」でネット検索してみたところ、「大湊の三泣き」(秋田県)がヒットしましたが、会津若松の方が広く流布しているようです。また「北海道の三泣き」「下北の三度泣き」もありました。確かに北海道や青森県・秋田県は冬が寒いので、初めて冬を迎えた移住者は泣きたくなったに違いありません。面白いことに北海道では、「三度」ならぬ「二度泣き」も使われているようで、「札幌の二度泣き」「釧路の二度泣き」も検索に引っかかってきました。また何故か「岡山の二度泣き」ともいわれています。もちろんそのルーツは不明であり。今のところ会津若松よりも古いと認定できるような資料は提示されていないので、とりあえず「会津の三度泣き」のバリエーションということにしておきます。
 それはそうとして、地元の人がいくら自慢しても、それでは証明になりそうもありません。ここはやはり実際に会津に住み、会津から転出していった人たちの意見を聞く必要がありそうです。「会津の三度泣き」についてどう思うか、自身の経験としてこれは正しいのか、忖度なしでうかがってみたいところです。アンケート調査でも実施してもらえないでしょうか。
 ここまできて、またもや太郎庵の出番がやってきました。太郎庵は昭和54年の創業ですが、ちょうど「会津の三度泣き」が地元で広まりつつあった時代に開店していたことになります。それもあってか、太郎庵では「会津の天神様」以外に、「会津のサンド泣き」という面白いクッキーも販売しています。これは「三度」を語呂合わせで「サンド」にしたものです。そのネーミングはさておき、おそらく他県で「三度泣き」を商品化しているところはなさそうですから、これによっても「三度泣き」の元祖が会津若松であることを自ずから証明していることになりそうです。
 なお太郎庵は、「三度泣き」に続いて「四度目は、美味しくて泣かせます」と「四度泣き」宣言までしています。今度会津を訪れたら、是非「会津のサンド泣き」を食べてみます。
 (注)ネットの記事に「戦後間もない頃に、ある新聞社の記者が会津に転勤でやって来て数年間を過ごし、会津を去る時に書き残した記事が元になっているそうです。」とありました。本当に戦後間もない頃の記事ならルーツが遡ることになるので、具体的な年月日が知りたいところです。