🗓 2023年08月26日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

生前のナイチンゲールに会った日本人として、長門谷ながとや洋治氏は「石黒忠悳ただのり・佐伯理一郎・津田梅子・安井テツ」の四人をあげています(看護教育)。ちょうど男性二人・女性二人です。その後、もう少し人数を増やす努力も続けられました。例えば金井一薫ひとえ氏は、有志共立東京病院看護婦教育所を設立した「高木兼寛かねひろ」を、その可能性の高い人物としてあげています(東京有明医療大学雑誌)。
 実はそれ以前、村田つとむ著『クリミアの天使ナイチンゲール』(警醒社・明治43年)の付録で、

日本人で直接ナイチンゲール嬢に会見の機会を得られたのは石黒忠悳男、松平乗承子爵、佐伯理一郎君、津田梅子女史と安井哲子女史外数名であったが、

(197頁)

と述べ、なんと五人の日本人の名前をあげていました。それに呼応するかのように、安井哲子(東京女子大学学長)による明治32年夏のナイチンゲールとの会見談が付録として掲載されています。

それはけい林園主人(中村茂文)著『ナイチンゲール』(東洋社・明治34年)からの引用ということなので、早速その本に当たってみました。するとそこに貴重な資料がありました。まず「松平乗承のりつぐ子爵」ですが、この人は佐野常民と一緒に博愛社の設立に尽力し、後に日本赤十字社の副社長を長く務めた人物です。その人のことが、

先年万国赤十字総会のとき石黒忠悳氏は、松平乗承氏と英に航して親しく嬢に会ひたりといふに、

(166頁)

と出ていました。おそらくこの記事から村田氏は、石黒忠悳氏と一緒に松平乗承氏もナイチンゲールに会ったと判断したのでしょう。それに続いて津田梅子の会見談が、

明治31年、米国のデンバー市で開かれた万国婦人教育大会へ出席しまして同国に滞在中、英国の貴婦人から招待を受けまして英国へ渡りまして、彼の国にて有名な人々に面会いたしましたが、其節ナイチンゲール嬢にも御逢ひ申して、親しく御話を承つたことでした。

(167頁)

と出ています。これを受けて安井哲子の会見談があり、その中で、

  明治32年夏のことでした。津田(梅子)さんから依頼を受けましてナイチンゲール嬢の許へ或贈物を持つて参つた事が御座りました。

(168頁)

と証言しています。安井哲子は津田梅子の依頼を受けて、ナイチンゲールに面会していたのです。

それとは別に、同志社出身の東郷昌武氏も、

私の訪問しましたのは、40年、日露戦争の後でした。早や余程衰弱なされて、中風にかかって居られると見え、一切秘書役が世話をしてゐて、

(179頁)

云々と記しています。この文面ではナイチンゲールに面会できたのかどうかわかりません。それが村田氏の本の「序」になると、

先年渡英の際嬢を其邸宅に訪問せしが、不幸にして嬢既に心身衰へ坐臥自由ならず、為めに嬢の英姿に親しく接するを得ざりき。

(3頁)

とあって、東郷氏は訪問したものの面会できなかったことになっています。

同様に中村勁林の本には、第一回ナイチンゲール記章を授章した萩原竹子の談話として、

丁度帰国します八月の月の十四日と思ひますが、其日の午後ようやく訪問しました。所が、私の来てゐることを疾くから御存じでらして、実は逢ひたいと御待ちかねであつたといふことで、私も御訪ねして善かつたと思ひましたが、折悪しく御具合の悪い日に参つたが為に、御逢ひすることが出来ず、

(183頁)

とあり、やはり邸の前まで赴いたものの面会はかなわなかったことが記されています。どうやら残念な人が何人もいたようです。

また「緒言」と目次の間を見ると、村田氏はラウラー・イー・リチャーズ女史著『フロレンス・ナイチンゲール(クリミアの天使)』を参照していることがわかります。しかもその著者のことを、

けだし予は女史が米国に於て最も古き看護婦学校の創立者なると同時に、今より二十年前我邦に来りて、同志社看病婦学校を創立せられし人なることを知り得たればなり。予も亦かつて同志社に学びし頃女史の謦咳けいがいに接するの光栄を得しことを追懐して、敬慕の情に堪へず。予がごうも知らずして女史の著書に拠りて鶯嬢を我同胞に紹介せんと志しし事、又京都に於けるリチャーズ氏の事業の継承者たる佐伯氏に小著の序文を請ふに至りし事を奇異なる因縁と思ふままここに一言を添ふ。

(2頁)

と述べています。これによれば村田氏は、著者であるラウラー・イー・リチャーズをリンダ・A・リチャーズのことだと思っているようです。もちろんリンダ・リチャーズもナイチンゲールに会った看護婦の一人ですから、彼女の伝記を書くことは十分可能です。しかし本当にFlorence Nightingale : Angel of the Crimeaの著者であるLaura E. Richardsはリンダ・リチャーズなのでしょうか。それについて佐伯氏のコメントがほしいところです。

なお、村田氏は後に『クリミアの天使ナイチンゲール』を絶版にし、あらためて大正十年に『ナイチンゲール嬢伝』(警醒社出版)を書いています。それは大正3年にエドワード・クックによってナイチンゲール伝記の決定版が出版されたことを受けてのことでした。そのことは「はしがき」に、

それ以前に行はれた伝記は此の書によって改作を必要とする。その以後のものはもとよりこれに拠る外はない。予が明治43年にかいた『クリミアの天使ナイチンゲール』もいまや存在の価値を失った。

(3頁)

と記しています。しかし新しい本には佐伯理一郎の書簡も、安井哲子の会見談も付いていないので、伝記とは別に古い本には資料的価値が残っていることになります。