🗓 2023年10月07日

荻野吟子
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

攬勝亭(らんしょうてい)を守る会の会長高瀬淳氏が、北海道せたな町の丹羽村を訪れたという。残念乍ら会津若松市内にあった名園攬勝亭は所有者が不動産業者に売却し宅地となる運命にある。与謝野晶子も訪れたという名庭園である。御薬園・可月亭庭園と並び会津の3庭園と呼ばれていた。その庭園が売却されるという話が持ち上がり、保存しようという運動がおこり高瀬淳氏が中心となった。いつの間にか私も幹事という役目を与えられたが会議に一度出ただけの幽霊役員であった。

会津藩士子孫会会長の北原秀光氏と高瀬淳氏が経営する老舗漆器問屋「白木屋」を訪れたことから宿題をもらってしまった。高瀬氏がせたな町を訪れた時に町役場の人に名所旧跡を案内してもらい、資料も頂いてきたのである。その中に日本初の女医荻野吟子がいたのである。その吟子の夫は同志社の卒業生である。近くにあるインマヌマ教会との関連性など知りたいということであった。ちなみにインマヌマとはヘブライ語で「神われらとともにいます」の意だそうだ。

私の頭には合併前はせたな町の一部は丹羽村と呼ばれていた時代があり、攬勝亭の所有者であった丹羽能教(よしのり:織田信長家臣丹羽長秀の後裔:1000石)の子孫丹羽五郎が中心となり開拓し、成功した際に望郷の思いから先祖が愛した攬勝亭を丹羽村にも作ったというものであった。写真も頭の中に入っていた。丹羽村を開拓したのは丹羽五郎である。五郎の実父は丹羽族(やから)といい野尻代官兼兵糧総督として、野尻村(現・大沼郡昭和村)に赴いていた。北越戦争に敗れた長岡藩家臣、その家族、長岡藩領民、会津藩士ら約1600名が同地を通過することとなった。族は糧食を提供するため奔走したが、食糧を調達できなかった。その責任を取り割腹自殺を遂げた。墓は大龍寺にある。本家丹羽家に男子がなかったので100石取りの五郎が名門の本家を継いだ。五郎は神田和泉橋署長まで栄進するが離職し北海道開拓にあたる。後述の海老名リンの夫海老名季昌も警視総監となった悪名高き元福島県知事三島通庸に従って東京にいて、同時期に警視庁に奉職していただろうが、五郎と季昌の接点は不明である。1891年に五郎は依願退職し、1892年三島が死亡したため季昌は職を辞し若松に帰ったことはわかる。

高瀬さんから同志社出身の牧師さんが教会を作ったと言えば興味も出てくる。実をいうと私が「不一・・・新島八重の遺したもの」の資料調べをしているときに北海道で同志社出身の牧師の果たした役割が非常に多いことを知ったからである。死刑囚が刑の執行前にお祈りをささげる時間があり、最後の言葉をかけるのが教誨師(受刑者に教え諭す役割)という役割であった。明治の中期までその教誨師の65%以上が同志社出身の牧師であった。その後仏教などの他宗教も勤めるようになったが、明治初期は圧倒的に同志社OBが勤めていた。

そのせたな町に荻野吟子の顕彰碑(昭和42年8月20日に除幕式が挙行される)があるのを知らなかった。テレビでも何度も放映されており、女医一号荻野吟子の名前だけは知っていた。荻野吟子は埼玉県の熊谷市の名主の家に生まれ、同じ名主層の夫と17歳の時に結婚したのだが、夫(その後県会副議長になる)に淋病を移され離婚した。その病気の為大学東校(現東京大学)で入院加療した。診察医はすべて男性であり、その時の羞恥心や屈辱感から医者になろうと決意した。しかし当時の医学開業に女性に門戸は開かれていなかった。当時の医学校には女性の入学は認められていなかったのである。その時の悔しさと虚無感と絶望感は当時の女学雑誌に述べられている。(ウイキぺデイアを見てください)かなりの困難な状況であったが、支援してくれる人もあり35歳の時に漸く女医として公認された。そして1985年(明治18年)本郷湯島に産婦人科の「荻野医院」を開業する。翌年本郷教会で海老名弾正牧師から洗礼を受けた。海老名弾正は新島襄が同志社英学校を創学したときの第一期生である。のちに第8代同志社総長となった。同志社英学校ができた時に熊本洋学校から15名が転校し、卒業後新島襄の遺志を汲んで布教活動を精力的に行った。

吟子は翌1886年(明治19年)東京婦人矯風会に入会し風俗部長に選任された。東京婦人矯風会を少し説明するとアメリカで起こったキリスト教プロテスタント系の禁酒運動「女性キリスト教禁酒連合」の日本支部である。徳富蘇峰の叔母である矢島梶子などが中心となり設立された。現在でも「公益財団法人日本キリスト教婦人矯風会」として活動を続けている。活動初期は禁酒禁煙運動・公娼制度の廃止運動・婦人参政権獲得運動に重点を置いていた。

ここで若松幼稚園の創立者海老名リンの登場である。海老名リンは1849年に生まれ1888年(明治21年)に霊南坂教会(初代牧師:小崎弘道同志社英学校第一期卒業生:2代同志社社長)で洗礼を受けている。1890年矯風会副会頭に就任した。一方吟子40歳の時、1890年14歳下の同志社の卒業生志方之善(26歳)と周囲の反対を押し切って結婚した。1892年夫が親戚と共に利別原野に移住し開拓することになった。吟子は医院を畳み、明治女学校に居を移し舎監となった。この1890年前後は吟子と海老名リンは矯風会活動で顔を合わせていただろう。

また、襄の死後、新島八重は、日本キリスト教婦人矯風会の活動にも協力し、運動の甲斐あって婦人の衆議院傍聴禁止が撤廃されたあとすぐに、矯風会の佐々城豊寿と一緒に衆議院に傍聴に行っています。{矯風会JWCTU会長 荒川 明子:JWCTUニュースレター62号P1~2より抜粋1890年12月(明治23年)八重は佐々城豊寿(矯風会創立メンバーフエリス女学校一期生)と国会を傍聴している。}

島八重と・海老名リン・荻野吟子との交遊もあったと思われる。

この時1893年頃、夫の志方は同志社の仲間や聖公会派と共にインマヌマ村(現今金村)にキリスト教の村を建設しようと憲法迄作った。が、しかし1895年(明治28年)共同礼拝をおこなっていた組合派と聖公会派が分裂しキリスト教村の建設は挫折した。

現在の今金インマヌエル教会のHPを見ると「今金インマヌエル教会 of 日本聖公会北海道教区」となっており聖公会北海道教会の管轄になっていることがわかる。知らなかったがインマヌエル教会は全国に110か所以上の教会を持っている大教団である。

1905年志方之善は死去し、吟子はインマヌエル村を一望できる丘に墓を建立。一方、吟子は1912年(明治45年)に荻野家に復籍、1913年(大正2年)63歳脳溢血で死去。本郷教会で葬儀。雑司ヶ谷霊園に眠る。日本女医第一号は愛に生きた人生を送ったともいえるが、医者として大成することを選ばなかったのは残念であると私は思う。

丹羽五郎
「会津武士」歴史春秋に掲載
丹羽
「会津武士」歴史春秋に掲載

(文責:岩澤信千代)