🗓 2023年10月16日
白木屋の高瀬社長より宿題をもらったので、吟子の夫志方之善が北海道の利別原野を開拓してキリスト教の独立国を企てたことを知った。それで色々調べていたのだが、キリスト教婦人矯風会の活動を通じて新島八重と荻野吟と若松幼稚園の創立者海老名リンが同時代を生きていたことが分かった。
その上、本日ネットで見ていたら、埼玉県飯能市立博物館で荻野吟子の死亡通知や自筆のはがき計3通が見つかったと毎日新聞が報じていた。
いみじくも悪戦苦闘して荻野吟子を追いかけていたら、当事者のニュースが飛び込んできた。予期せぬことが起こるものだ。今携わってることが予期せぬ展開もありうるのだ。
秋山角弥の経歴を調べていたら安積高校の副校長と接触を持つことになった。そしたら副校長の父親が猪苗代小学校の校長だったことを知り、猪苗代の現校長先生に喜ばれた。なぜなら、創立記念に歴代校長に感謝状を贈ろうとしていたが一人だけ連絡が取れず困っていたそうだ。それが何と安積高校の副校長の父親だったのだ。当初は校歌を作詞した秋山角弥の経歴を知りたいと八重顕彰会のHPに問い合わせがあったのだが、思いもよらぬ展開になった。
挙句に野口英世が1915年10月15日(大正4年)に同志社女学校で講演していることも分かった。八重は昭和7年まで存命であったので、同じ会津出身であることから同志社女学校で二人は面会している可能性が高いのである。新しもの好き珍しい物好きの八重さんが至近の距離にある同志社女学校に行かないはずはないのである。
追いかけている人物の資料がほぼ時を同じくして発見される問ことは偶然の妙である。まるで神がかりかと思う。
(文責:岩澤信千代)