🗓 2026年03月21日
吉海直人
日本人ならあまり問題になりませんが、日本語を学習している外国人から質問されて説明に困ることがあります。唱歌「春が来た」という歌に出てくる「に」と「で」がその一例です。まずその歌詞をあげてみましょう。
1番 春が来た春が来たどこに来た山に来た里に来た野にも来た
2番 花が咲く花が咲くどこに咲く山に咲く里に咲く野にも咲く
3番 鳥が鳴く鳥が鳴くどこで鳴く山で鳴く里で鳴く野でも鳴く
見事に五音が連続していますね。これは明治43年の『尋常小学読本唱歌』にある曲ですが、東京音楽学校の高野辰之という有名な国文学者が作詞したと言われています。彼は作曲家の岡野貞一と組んで、有名な「春の小川」「朧月夜」「もみじ」「故郷」などを作詞したとされています。なおこの歌には、春の到来を知る手段として「花」と「鳥」が用いられていますが、それにふさわしいのは「梅」と「鶯」でしょうか。問題は3番の歌詞だけが「に」から「で」になっていることです。さてみなさんはこの「に」と「で」の違いを説明できますか。
一般に日本語教育では、存在(状態)の場所が「に」で、動作の場所が「で」と説明されています。また「に」は動作や作用の到達点を示し、「で」は動作(行為)や作用が行われる場所を表すとも説明されています。確かに花は状態で、鳥の鳴き声は動作ですね。場合によっては、「で」は選択された場所を表すともいわれています。
こうやっていろいろ考えていると、後に来る動詞が異なっていることに気付きませんか。「来る」(行く)は「山に来た」とは言いますが、「山で来た」とは言いません。こういった接続の有無で用法を説明するのも、現代語学の有効な方法とされているようです。
もちろん動詞を共有するものもあります。その場合は微妙に意味が異なります。「公園にゴミを棄てるな」と「公園でゴミを棄てるな」はどうでしょうか。「で」は行為が公園内で行われるのに対して、「に」は公園外からの行為でも可能のようです。また「ここに寝て」と「ここで寝て」はどうでしょうか。「に」は病院の診察ベッドを示している感じで、「で」は人の家(空間)に泊めてもらう感じです。当然「に」は横になる意味であり、「で」は就寝の意味になります。「みんなに言う」と「みんなで言う」も意味というか言う方向が大きく異なりますね。
それが「も」と合体して「にも」「でも」となった場合、たとえば「子供にもできる」と「子供でもできる」はどうでしょうか。「でもしか先生」も同様です。かつてバスケットボールを素材にしたマンガに、「チビでも選手」というタイトルのものがありました。これなど対象外というか、できそうもないものを例にしているようです。もちろん「チビにも選手」とは言いませんね。
肝心の「山で鳴く」ですが、これは「山に鳴く」でも使えます。その場合、意味はどう違うのでしょうか(違わないのでしょうか)。ちょっと難しくなってきました。「で」の場合は、複数の鳥がそれぞれ異なる場所で鳴いている感じです。それが「に」だと、一羽の鳥が飛びまわりながら場所を変えて鳴いている感じです。この答えでは納得できそうもありませんね。
さて、ここまでは現代語として考えてきました。ここで発想を転換して、言葉の歴史的変遷を考慮してみましょう。すると「に」と「で」の使い分けは成立しなくなってしまいます。というのも、「で」は「にて」から発生した比較的新しい助詞であり、古典の世界には存在しないからです。古く『万葉集』には(では)、
・冬ごもり春さり来らしあしひきの山にも野にもうぐひす鳴くも(1824番)
・あしひきの山にも野にもほととぎす鳴きしとよめば…(3993番長歌)
などと歌われており、「鳴く」と「にも」が普通に結びついていました。また『古今集』仮名序にも「花に鳴く鶯、水に住む蛙」とあります(現代語でも「水で住む」とは言わない)。要するに「山で鳴く」は近代的(後発的)な表現だったわけです。古典を専攻する私の答えとしては、これがベストアンサーです。 それとは別に、春の訪れということでは、春は南から北へ、低地から高地へと推移するので、山→里→野という歌の順番には違和感があります。普通に考えれば里→野→山となるはずだからです。調べてみると、明治36年9月発行の『尋常小学読本』(巻五第二課)の「のあそび」に、「山に、来た。野に、来た。さとに、来た。」と出ていました。これが原典のようです。山の位置は変わりませんが、曲を付ける際に「野」が一音なので最後に回し、さらに「にも」をつけて語調を整えていると思われます。どうやらこの歌詞は初春の訪れではなく、春の盛りを謳歌しているのではないでしょうか。
