🗓 2019年12月07日

岩人の新そば(伊勢参り仲間とは)

 
 2019年12月5日毎年恒例の「新そばを食べる会」が「岩人」で開催された。私はこの店に遠方から来られたお客様を案内する。まさに我が家の隣で地の利もよく、お客様には例外なく「美味しかった」と言って頂けるのだ。名誉顧問の奥野先生ご夫妻や長州の山本貞壽先生にもご同行頂いた。

今日のメンバーは「伊勢参り仲間なかま」である。民俗学の範疇であるが村落共同体では昔からある年齢になると「お伊勢参り」に行く。そのメンバーは一生涯冠婚葬祭を共にする。兄弟と同じくらいの交際を一生涯続けることになる。
 そのメンバーとは、毎月会費制で集まり、会費が積みあがったところでどこかへ旅行に行く。決まって毎月5日は顔を合わせて他愛もないことを話しながら時間を忘れて飲んでいる。我々の会の名前は毎月5日に集まるので「5日会」という。普段は「やまあ食堂」を根城にしている。私は50歳まで東京に本社がある証券会社に勤務していたのでそのメンバーと「伊勢参り」には行っていない。年の差4、5歳くらいの集団であるが、退職して会津に戻ってきたら、同世代だから仲間に入れと誘われ加わった。今のところ、旅行は四国へ二泊三日の旅程にて妻同伴で参加したのみである。メンバーは子供の頃の洟垂れはなたれ小僧の時から知っていて、なんでも言い合える仲である。酒を飲んでまたよく口喧嘩もする。でも翌月の5日にはケロッとして酒を酌み交わして冗談を言っている。
 会津藩の武士は10歳になるまで「ならぬことはならぬ」で有名な「「什」という町内会の年の近い仲間と遊んでいたが、私たちの農村地帯でも同じようなものであった。武士の社会でも上下3歳までは名前を呼び捨て、親の身分に関係なく年長者を長とした。私たちの村落の子供たちも同じで年の違わない子供は呼び捨てで3歳以上離れると年長者を「君」づけで呼んだ。他所から婿養子に来て村落の一家の主となった人もいるが、その嫁は同じく町内で育っているので洟垂れはなたれ娘の時からお互いに知っているからその夫も同じようなものですぐに打ち解けるのが常である。

生まれてから、このような世界に生きてきた私たち年代は村落共同体で集うべき仲間がいるが、こと私たちの子供世代になると状況が変わってくる。私の子供も盆暮れには必ず会津に帰ってきたが、棒切れをもって町内の子供たちと戦争ごっこをしたりはしていない。私の本家の当主は2歳下だが子供たちは大阪に家を建てて住んでいる。私の子供二人も神奈川県に住んでおり、身内の葬式以外では会津の家に寄り付かない。私が子供の頃にあった農村地帯の風景は昭和・平成・令和と時代を経過するに従い変質しているのである。

東京の団地で実際ある話だが環境整備に町内会共同で作業を行うのに高齢化で実際の作業を行う人員が集まらないという。その代わり不参加の人が支払うペナルテイーのお金が大量に集まるという。環境美化に参加した人はわかると思うが、重いものは数人の力を合わせて動かすことができるが、人がいなければ何もできないのである。環境美化には労力が必要なのである。力はいらないが最低の人数は必要である。今私が住んでいる町内会の戸数は120世帯であるが、今後どうなるのだろう。私たちが子供時代には村を2分して敵味方に分かれ「戦争ごっこ」をしていた時代には、戻らないのだろう。

実は「戦争ごっこ」をしている最中に私は敵の捕虜になってしまい、木に縛り付けられた。夕闇が迫り私を縛った先輩は、みな家路について私は完全に忘れさられた。その状況に気が付いた私は大声で「助けてくれ」と叫んだ。そして通りかかった大人に縄をほどいてもらい脱出できた。縛られた木が人通りの多い道の側にあったから良かった。道路から離れた木であったら手足は不自由であったから脱出できず木に縛られたままであったろう。
 そんな遊びの中で私たち子供は、ボヤボヤしているとロクなことはないことを学んだ。私を縛った敵(同じ村の子供)の名前も助けてくれた大人の名前も今は記憶にないから特定できない。従って私を縛ったままほったらかしにした敵(村の子供)にも怨念はないのである。

会津盆地の数多い伊勢参り仲間の一つ

(文責:岩澤信千代)