🗓 2019年12月29日

「新島八重顕彰会」誕生秘話

 
 年号が新しくなり令和元年もあと僅かになった。どのようにして顕彰会ができたか記録に残しておくことにした。今年6月14日に所用があり大龍寺の住職を訪ねた。朝の8時前だろうか。山本家の墓の方で賑やかに談笑する一団がいた。住職の奥さんである宮子さんに誰かと聞くと室井市長だという。「八重の桜の放送が終わってからずいぶん年数がたつから今年で墓参りは辞めたらと市長に言うつもりだ」とのことである。私は「顕彰会を作るのは今だ」と思った。不一・・・新島八重の遺したもの」を上梓した時から顕彰会設立を考えていたのである。なぜ今かというと市長選の前でもあり室井市長の再選はその時点ではわからない。第一もし市長が変わったら新市長が新島八重の命日に「山本家の墓」のお参りに来るか保証はない。室井市長は「八重の桜」が放映されたことにより経済効果や郷土の偉人が東北大震災で失意の中にあった市民や他の東北の人を勇気づけたことを知っているから毎年墓参りに来ているのだ。数年前には山本家の墓の前に宮子さんが新島八重の歌碑を立てた。(吉海講座参照)ちなみに歌碑建立の資金は住職が愛妻の意を汲んで拠出されたのことである。除幕式数日前宮子さんから歌碑の除幕式をやるとの突然の連絡を受け、室井市長と歌碑の除幕を行った。歌碑を建立するにあたり、八重の歌は何がいいと宮子さんに聞かれ、大龍寺にある山本家の墓を連想させる徳富蘇峰記念館所蔵の八重の歌を紹介し、記念館に連絡し、資料を取り寄せその文字を拡大し宮子さんが建立したのである。これは新聞、テレビで報道された。

たらちねの御墓のあとをとふことも     
     今日をかぎりとなくほとゝぎす

である。

確かに「八重の桜」放映中に会員を集めたら人は集まっただろう。何故今かの一番の理由は、7.8年経った今の方が、本当に先人を顕彰しようと思う人たちが会員になってくれるのではと考えたのである。必ずブームは去る。ブームが去った今が設立の時期であると判断した。市長他観光商工部の職員と別れてからおもむろに宮子さんに話しかけた。「一緒に顕彰会を作りませんか?」「やりましょう。」と即決であった。私は何年も構想を温めていたので櫻井よしこ先生をはじめ長らく会津の歴史を愛していた奥野先生等に声をかけ顧問になって頂いた。そして八重の研究では同志社随一の吉海直人女子大教授に相談したのである。その後、ホームページを作成して活動などが会員にわかるようにした方が良いなどのアドバイスを受け実行した。その後も細かいことまで相談させていただいている。
 初めに顕彰会設立の趣旨に賛同する人を募り発起人会議を7月3日に大龍寺本堂で行った。そこで趣意書や会則を議題として取り上げた。私が主張したのは会長の任期を1期2年としようということであった。他の顕彰会と同じように会長職が長い間同じだと活動が膠着・マンネリ化するのではと考えたのである。表紙がいつまでも同じだと中身が新陳代謝しているだろうかと心配になる。表紙を変えることにより新しい知恵が出てくるのではという考えである。発起人会議でこれが白熱した議題になったのだが、もし万一すんなりと後任会長が決まらない場合のことを考えて最長でも2期4年ということに落ち着いた。顕彰会のために一生懸命汗をかいた人が順次会長になっていく姿が望ましいと考えている。設立後の会の運営は、すべてこの「発起人会議」で議論された趣意書や会則などが基本的な考えになっている。

とはいえ「今さら何で八重?顕彰会?」という答えが返って来るかと予想していたのであるが、11月末で会員数は法人・個人合わせて優に160名を超えた。年内200名もという勢いである。HPで県内はもとより遠くは京都府からも会員になって頂いている。その方は来年の顕彰祭にも京都からわざわざご出席くださることになっている。群馬県安中市ボランテイア団体からも問い合わせが来た。

ブームが去った今が顕彰会設立のタイミングだろうと考えたのは大正解であった。新島八重・山本覚馬・会津の歴史が本当に好きな人がたくさんいたのである。
また、初年度の顕彰会活動については2月初旬まで会員の皆様に郵送する予定です。

会員になられた皆様の負託にこたえるよう役員一同、気を引き締めて令和2年度を迎えたいと思います。来年6月14日には八重さんが喜んでくれるような「第1回顕彰祭」を企画しています。

皆様よいお年をお迎えください!!

 
発起人:樋口朝亭、増子大道、増子宮子、岩澤信千代、岩沢 孝、宮﨑伊一朗
    筒井弘、高橋一美 (順不同)

(文責:岩澤信千代)