🗓 2020年04月02日

攬勝亭を調べていたら思わぬ副産物が出てきた。高瀬かづ子氏にご教示頂いた「旧会津若松市史」である。再度読み返す機会となった。「不一・・・新島八重の遺したもの」を執筆した時に目を通した記憶があるのだが、その時はほとんど目にはいらなかったことが、今回改めて新島八重につながる新発見につながったことがあったので箇条書きにしてみたいと思う。

  1. 新島襄は江戸の安中藩邸で育ち漢学の素養をそこで身に着けたのであるが、先生は喜多方市出身の添川廉斎であった。襄のトレードマークの額の傷は子供の頃、安中藩邸で怪我してできたものである。会津出身の添川廉斎が何故襄の師範になったのか疑問だったのだが、この本を読んで氷解した。安中藩主板倉氏が大阪で廉斎を採用したのであり、廉斎は有名な頼山陽に師事しており高く評価されていたことがわかったのである。八重が襄亡き後、大好きな銭湯から帰ってきて、毎回眺めて冥福を祈ったという「 送歳休悲病膏身」をはじめ漢詩が数多く残るがその襄の漢詩のレベルは高い。
  2. 山本覚馬
    覚馬の功績が端的にまとめられているので全文を掲載する。京都守護職時代に公用人(他藩と接触し、藩主に建言する部署で、今の民間企業に当てはめれば企画部門か)に取り立てられた記述がある。日新館には通常10歳で入学するのだが9歳で入学したということ及び江戸留学(当時日新館の優秀な生徒は江戸留学か長崎留学が許可された)を認められたということはかなり文武優秀だったことがわかる。
  3. 会津松平家が山形から入部する前は蘆名氏の時代が400年続いた。その蘆名氏の名族(藤原鎌足の子孫といわれる)であった沼沢家の菩提寺は大龍寺である。同じく檀家である林権助(山本覚馬の上司大砲頭取)の稿もあるが
    沼沢道子の方が紙幅を取っている。見事に落城時自刃し、子の七郎は母の教えをよく守り大学南校を卒業して 各地の郡長を歴任した。道子は旧領の沼沢に散らばる旧臣を集合し、小八郎(のちの七郎、出雲)を隊長として新潟方面の守備にあたらせたことでも有名である。今でも沼沢家臣団の結束は強く連判状のコピーを大事にし、大龍寺の沼沢家のお墓掃除などを行っている。
  4. この市史によると会津3園は旧会津藩時代では御薬園、攬勝亭、善久町大関氏の庭で元禄時代にできたのだが、市史が出版された昭和49年当時面影もないとする記述もある。
  5. 余談(平太の悲劇)・・。会津若松市史から
    中荒井組蟹川かにかわ村に平太という百姓がいた。本郷河原で白斑の雲雀ひばりを捕まえた。殿様に献上すれば褒美ほうびがもらえるだろうと喜んで帰った。そこで女房が言う。「今の藩主は渋柿宰相といって大欲無道の殿様である。金雲雀を持っていっても逆に農業に励まず殺傷をしていると言って厳罰に会うかもしれないからやめときなさい。」という。そこで平太は山を越え仙台の伊達政宗のところへ持って行ったところ、ご褒美に15両をもらって意気揚々と帰ってきた。
    後日、政宗はその雲雀を将軍家に献上したところ、将軍からどこで捕獲したと聞かれ「将軍が小鳥のことを好きなので仙台領ではなく使いを出し会津郡で求めた」と答えた。そこで将軍から「このような珍鳥が取れるのなら宰相(会津宰相:蒲生秀行)から差し出すべきであろう」と江戸在住の蒲生の家臣団は言われた。秀行は江戸不在で会津領に帰っていたが、江戸の家臣から連絡が来てすぐに犯人探しがはじまり平太夫妻は簡単に召し捕えられた。妻の悪だくみも露見して夫婦ともども大河原で釜茹での刑になった。その場所は「平太畑」と呼ばれ大雨の闇夜には夫婦の幽霊が出て泣き叫んだという。

 これはおそらく実話であろう。さて皆さんこれを読んで女房の浅知恵を笑いますか?殿様の処断の厳罰を批判しますか?
このように世の中は「万事、塞翁が馬」ではないですが、何が良くて何が悪いか結果が出ないとわからないことが多々ありますね。ただ強欲はろくなことはないとは言えますね。

(文責:岩澤信千代)