🗓 2020年08月07日

2年前の戊辰150年の年に記念誌「薫猶を選びて」を刊行しました。その中に「中野竹子と新島八重」の拙文を掲載しました。原稿を書いていく中で、会津と越後高田藩とのつながりにも言及しようと考えました。落城後城外で戦っていた藩士は越後高田藩に謹慎幽閉されました。越後高田に着くまでの「流れ歌」も遺っています。食事が大変だったのですが、おかずはタクアンと数の子であったことなど記録に残ります。1000名以上を受け入れる高田藩にとっては大変な負担でした。
 その高田藩(現上越市)に新潟県で最初ともいえる女学校(高田女学校)が設立されました。なんとそこの初代校長が中野豊記なのです。戊辰戦争で女ながらに薙刀なぎなたをふるい戦場に散った中野竹子の弟なのです。竹子は眉目秀麗、才色兼備と言われていますので、弟の写真と妹優子の写真から竹子の肖像が想像できるのはと考えました。そこで北城高校に電話したところ夏休み中だったのですが担当の先生が出られ「ちょっと待ってください。」と言って電話から離れられ「ありました。校長室に歴代校長の一番最初のところに中野豊記の写真がありました。」そこで池嶋校長の了解のもと写真を送っていただいたのです。それも校長の計らいで、「昔から取引の写真店にネガがあるかもしれない。」とのことで写真店に問合わせていただきネガから作成したものを送って頂いた。
 そのようなこともあり、今回添付しました池嶋前校長の依頼に対し、断る理由はありません。高田北城高校(高田女学校)に会津と上越市(高田藩)の歴史的つながりがあるのです。
 池嶋先生が歴史的繋がりを北城高校120年記念誌に遺していただけることは我々会津人にとっても喜ばしいことだと思います。
 それとあまり知られていませんが、2018年(戊辰150年)に上越市の会津藩士が眠る墓地に室井市長が慰霊の為に訪問されています。新聞記事には載りませんでしたが、先人に感謝する市長の地道なアクションは大変評価されてしかるべきものと考えます。

戊辰150年記念誌「薫猶を選びて」より

(文責:岩澤信千代)