🗓 2020年09月27日
2018年は戊辰戦争から150年目の年に当たる。長州・薩摩では明治維新150年といい、会津では戊辰150年といいそれぞれ節目の式典を行った。式典会場で薩摩・長州では自衛隊のブルーインパルスを飛ばす予定だった。長州は雨のため飛行機は飛ばせなかったらしい。
会津若松市のキャッチフレーズは「義の想い。つなげ未来へ」であった。だがよく考えると「義」と何か、はっきり認識している人がどれだけいるだろうか?
広辞苑を見ると①道理。条理。物事の理にかなうこと。人間の行うべきすじみち。(仁義礼智信)②利害を捨てて条理にしたがい、人道の道のために尽くすこと③から⑤は省略。
さて、会津藩の「義」とは何ぞや?
日新館童子訓の基本は「3大恩」である。「父母の恩」「君主の恩」「師の恩」である。
人間(武士)は父母から生まれ養育されて成長する。父母は君主から給料をもらっているから子供を育てられる。また、師(先生)から物事を教えてもらえるから物事の理がわかるようになる。二宮尊徳の報徳訓は
一、父母の根源は、天地の命令にあり
一、身体の根源は、父母の生育にあり
一、子孫の相続は、夫婦の丹精にあり
一、父母の富貴は、祖先の勤功にあり
一、吾身の富貴は、自己の勤労にあり
一、自命の長養は、衣食住の三にあり
一、田畠山林は、人民の勤労にあり
一、今年の衣食は、昨年の産業にあり
一、来年の衣食は、今年の艱難にあり
一、年々歳々、報国を忘るべからず
である。
こちらも身体の根源は父母の生育にありである。日新館童子訓は父母が藩主から俸米をもらって家族を養うことができるので自分たちが立派な大人になれるのだということである。ここに封建領主(藩主)に絶対的な忠誠を誓うという意味が込められている。白虎隊の自刃は城下が燃えているのを鶴ヶ城が燃えていると錯覚し、「殿様は城を枕に討ち死にした」と錯覚して、もはやこれまでと殉死したようにも見える。「君主に対する義」である。それは忠義と言ってもいいかもしれない。
それでは「会津藩の義」とは何か?「藩祖の出自のもとである徳川家」か「天皇家」か?
会津藩を弁護する側からすると「松平容保は孝明天皇からご宸翰をもらっていて天皇家も蔑ろにしない勤王の志を持っていた。」である。だが「家訓の第1条徳川のために忠誠を尽くせ。」があったために、やむなく開戦に至ったというものである。
「義」の狭義の忠誠・忠義からすると徳川家・天皇家に対して会津藩はどちらへも「義」を持っていたことになる。2500名の戦死者を出したことは②の人道の道のために尽くすことであっただろうか。山田方谷は人民を守るために西軍に降り、河合継之助は会津藩に同情し、城下を戦火に巻き込み北越戦争後、長岡市民の反感をかった。
鶴ヶ城・飯盛山など会津を訪れる人は多い。この会津戊辰戦争がなければ、すなわち戊辰戦争の歴史がなければこれ程の観光客をよびこめるだろうか?会津藩士は斗南藩を経て各地で生計を立てた。現在会津若松市に住んでいるのは、当時商人、農民であった人の子孫がほとんどだろう。今住んでいる人が会津戦争の悲劇があったおかげで生計を助けられているのも事実である。当時農民であった子孫である私は18歳で大学進学のため故郷を離れ27年間間東京・仙台・札幌・静岡清水市など転勤したが、常に会津があった。武士の家系でもないのにである。故郷を離れて他国人と交わると会津藩の足跡は大きいことがよりわかる。
この稿で「義」を解明しようと試みたが、難しいのであきらめた。
(文責:岩澤信千代)