🗓 2021年10月11日
睡眠薬がわりに読んでいる本に会津人群像「2010.NO.16」(白虎隊の真相を語る特集号)がヒットした。その中に飯沼一元氏が「飯沼貞吉の生涯」という労作を掲載されている。
そして、小見出しに「四、猪苗代を出発してから、工部省に任官されるまで」というのがある。紹介させていただくと、
【「事績」には明治5年に任官となるまでの四年間について、以下に示すわずか四行しか記されていない。特に、明治三年十一月までの二年間については、一行も満たない記述で片付けている。そして、この空白の2年間が長州滞在説に該当する。】
この「空白の2年間」であるが、前回紹介した会津藩士の山田善八氏が遺した「護国寺謹慎者名簿」を見ると空白ではないのである。山田氏の名簿の基準日は明治二年霜月(11月)である。その時まで飯沼貞吉はちゃんと父時衛とともに東京護国寺の会津藩謹慎者だったのである。であるから植松三十里さんの「一人白虎隊」は無理矢理護国寺から楢崎頼三と飯沼貞吉の話を始めている。
護国寺から長州へ説は、楢崎頼三と飯沼貞吉を結びつけるのは無理がある。一旦長州に帰った楢崎頼三がわざわざ会津藩の青年を面倒見ようと護国寺に行ったのか。当時は新幹線などないのだから、東京→下関徒歩であれば片道20日間の旅になる。楢崎頼三は「提兵日録」という従軍日記のようなものを克明に誌している。楢崎頼三は、飯沼貞吉・時衛父子が猪苗代に謹慎されている前年に既に他藩の捕虜400名を引き連れ東京に護送している。その任務が終わり長州に帰国するまで詳細に日記に記述している。これは萩図書館のホームページでも閲覧できる。
第一に戊辰戦争終結後まもないのに白虎隊の悲劇を楢崎は知るすべがなかったろう。白虎隊生き残りの飯沼貞吉を謹慎者の会津藩士の中からピックアップする根拠を探し出すのも困難だ。また、白虎隊士であろうがなかろうがわざわざ東京まで行って会津藩士の若者を連れ帰る必然性は彼にはないだろう。
頼三は自分がフランスに留学したくてうずうずしているのに他人を配慮する余裕などなかったとみるのが妥当だろう。
同じ「歴史群像」の土屋貞夫氏の「飯沼貞吉と楢崎頼三」は論理の飛躍がすごいので紹介しておこう。無謀といえる結論の導き方である。こちらは鶴ヶ城落城の年に、頼三が猪苗代から貞吉を同行させている暴論である。占領軍からは女子・子供と病気のものは「お構いなし」と通達されている。貞吉は相当に傷が回復したから猪苗代謹慎所に出頭したのだろう。第一に傷病兵として猪苗代城に出頭するはずがないのだ。
【ではどこで飯沼貞吉の接点があったのだろうか。飯沼貞吉は会津藩の傷病兵として猪苗代城に出頭したのかもしれない。楢崎頼三は十月十二日に各藩を脱落して、会津藩に協力した兵四六〇余人を猪苗代から東京に護送する命を受けていた。ここで、飯沼貞吉が東京行を希望したか、あるいは楢崎頼三が同情して会津を出ることをすすめたかとも想像される。】
まさにひどい「想像」である。高見フサの口伝を正当化するために飯沼貞吉が長州へ行ったと信ずる人びとがあの手この手で苦労しているのが如実にわかる。猪苗代謹慎者名簿に飯沼父子ははっきりと記載されているので他の会津藩士とともに、楢崎が長州へ帰った翌年に東京護国寺に護送されたのである。この文章からする東京に貞吉を猪苗代から連れて行ったように受け取れるが他藩の捕虜護送に貞吉を伴ってはいない。
貞吉は明治2.3年までは護国寺に謹慎していて、その後、弟関弥の「もしお草」にあるように静岡の林三郎の塾に行った。その後は逓信省のキャリアになったとすればすっきりする話である。逓信省に入ってから経歴は明白になっており下関や札幌・仙台に勤務していたことはすでに明らかになっている。
すなわち、「空白の2年間」とは空白でもなく護国寺にいた時と静岡の私塾にいたときの合算なのである。口伝の2年間長州にいたという話は人違いかなんかで間違いであることは、火を見るより明らかな話である。
最後にお断りしておくが、飯沼貞吉が生き残って立派な人生を送ったことを何ら否定するつもりはありません。今も昔も、同胞が腹を切ったのになぜ生き残ったのだと批判するのが多い世の中である。その中で毅然として人生を全うした飯沼貞吉を誰が批判できようか。
(文責:岩澤信千代)