🗓 2021年12月22日
先日、河東史談会の会長さんがお見えになり、過去の私の原稿を掲載したいとの話であった。もちろん快諾した。新島八重のことを書いた拙書「不一・・・新島八重の遺したもの」の資料調べの時に古川春英が気になっていたからである。40歳前後でチフスにかかり亡くなったので会津でも知る人は少ない。春英の息子源次郎さんは北里大学で野口英世と同級生である。また春英が12.3歳で医学を志し、初入門したのが漢方医の山内春隴である。最近、春隴が会津が生んだナイチンゲール瓜生岩子の叔父であることを知った。岩子が春隴の元で勉強したので戊辰戦争で敵味方なく介抱できたのである。クリミア戦争でできた赤十字社は、磐梯山噴火の時に戦時でなく初めて平時に救援活動を行ったという歴史があるが、それ以前に岩子は赤十字と同じような敵味方別なく救援活動をしていたのだ。
先日、古川春英の曾孫さんからお電話を頂いた。河東史談会の古川潤一会長から私のことを聞いたとの事であった。古川春英について私は「歴史春秋」という季刊誌に寄稿したことがある。その文章を読んでお電話をくれたそうである。ありがたいことに原稿の誤字なども指摘したうえで重要な間違いのこともご指摘いただいた。ちなみに春英が日新館で医学の教授をしていた時に新島八重の夫川崎尚之助に刀を置き土産にしたという。外科手術の腕が良すぎて会津藩の漢方医たちに疎んじられ春英は函館の陣屋に行った時のことである。その時の心境を書いた漢詩が子孫宅に遺る。
原稿を書くときに古川春英のご子孫に調査に行ったのだが、先祖を調べられていた方がお亡くなりになり、その方の奥さんから春英の遺品である自筆の掛け軸とか見せて頂いたのだが、その亡くなられた方の弟さんからの電話であった。会津高校の5年先輩であった。
古川春英は米沢の外科医のところからわずかな路銀をもって野宿をしながら飲まず食わずで長崎まで医学の修行に行った。そこで知り合った日本陸軍初代軍医総監松本良順(鶴ヶ城籠城戦に参加:徳川幕府のお抱え医師)も一目を置いた春英の外科手術の腕前と生き様はドクターXもきっとかないませんよ。
(文責:岩澤信千代)