🗓 2022年03月13日
慶応年間「会津藩士人名録」を見ていたら、新しい発見がありました。
①新島八重の生家山本家の本家の山本道珍家は、初代が保科正之に召し抱えられたのですが、代々松平家に厚遇されていた。慶応年間には代々御坊主頭として130石の手当てをもらっていた。初代山本道珍良次の時は200石だったような気がするが。(2代目から会津に住む)ちなみに御坊主頭とは茶道・茶器・屏風・掛物等のことを任務とした。
②八重の初めの夫川崎尚之助は、他藩(出石藩)出身ながら会津藩士として13人扶持(諸師範型方砲術)の給料をもらっていた。山本覚馬が藩士に推薦したが他藩出身者であるため、採用されなかったという記述もあったのだが藩士として認められていたのである。斗南藩に行って外国との米取引の責任を一身に背負ったのだが、会津に忠義を尽くした。ちなみに山本覚馬は大砲方頭取で19人扶持で尚之助と対してそう変わらない。本家の山本道珍家の高禄と違い分家の覚馬家は給料は多くなかったことがわかる。
③斗南会津会の山本源八会長の曽祖父内藤介右衛門信節(のぶこと家老2200石)の前妻は相馬繋(200石)につながるのだが、相馬家は別に直登家(密事頭取220石)があった。二人とも戊辰戦争の戦史には頻繁に出てくる。
(文責:岩澤信千代)