🗓 2023年08月18日

余りに暑いので雪が舞い散る寒い時代に起こった事件の話をする。

図書館に行き蔵書棚を漁っていたら「渋川善助」が目に入り、借りてきた。渋川善助の実家は「渋川問屋」として今も続いている商家であり、私の家から車で10分ともかからない。現在の当主は会津若松商工会議所会頭である。2年前櫻井よしこ講演会で、先生がお見えになったとき渋川善助の部屋(憂国の間:三島由紀夫が命名した)を案内した。民間人で死刑判決を受けたので有名である。

いわゆるクーデター事件であるがミャンマーの軍政と違いタイのク―デターに近いのかなと思われる。その違いはタイには国王がいて日本には天皇がいる。ミャンマーに国王はいない。ロシア革命は皇帝を廃止した。2.26事件は天皇を排除するものではなく、天皇親政による国家改造を目論んだ。すなわち、農村の疲弊の原因は天皇のそばにいる側近や財閥の支配で何も策がないからで奸臣を抹殺しようということである。その頃の軍隊は地方の農村が兵隊の供給地であった。農村の疲弊を救おうという意図があった。農村では食べるものがないので食欲を減退させるためあざみの根っこを食べたという説が広まっっていた。

一審のみで再審なし・弁護士なしの軍事法廷の調書がこの本には網羅されている。

渋川善助は直接的に軍事行動には参加していない。しかしながら、反乱将校と綿密にかかわっており、後方支援のようなことをやっている。拳銃も5丁を調達している(要人護衛の警官から奪ったもの)。ただし弾丸は陸軍上層部の猟銃店への圧力で調達できなかった。軍隊のみの決起だけでなく米騒動(70万人が参集)を想定して山形や秋田から農民の参加を募ったりしている。天皇の理解を得るための勅をとれるような画策をしていた。しかし老臣を殺害された昭和天皇は激怒し、反乱軍の鎮圧を命じた。天皇親政どころか見事に昭和天皇に拒絶されたのである。

その原因は陸軍の中に皇道派と統制派の争いがあった。結論はこの皇道派は2.26事件で粛清され、統制派の東条英機などの統制派の台頭を許すことになった。これが日本が太平洋戦争の悪夢にすすむきっかけとなったのは歴史が証明するところである。

ちなみに皇道派の黒幕は荒木貞夫と真崎甚三郎と言われたが私の父貞夫はこの荒木貞夫、父の弟は英機で東条英機の名前から付けたと祖母から聞いた。いずれも祖父の兄巌が名付けたと聞かされた。軍国の時代に生まれ、中学生の時に父親が硫黄島で戦死した父は苦労のみの連続で20年前にこの世を去った。父の弟はかって私に言った。「兄貴は笑ったことがあるのか?笑ってる顔を見たことがない」と。

余談だが渋川善助は仙台の陸軍学校を退学させられた後、明治大学政治経済科を卒業した。明治大学同窓会会津支部長である戸川会長に連絡したところ渋川善助が校友であったこと知らなかった。

(文責:岩澤信千代)