🗓 2023年09月28日

マイナーで知る人が少ない人物である秋山角弥について記述します。「不一・・・新島八重の遺したもの」を10年程前に上梓しましたが、その資料集めの時に出会った人物です。愛する夫襄を失った八重は人生の半分40年程をやもめとして過ごしました。その間まさに奉仕の精神で赤十字や従軍看護婦としてあるいは茶道を女性にも広めたりしていました。変わらなかったのは毎年6月の第2日曜日に催される京都會津会の法要に必ず参加することでした。その京都會津会の様子を当時の幹事秋山角弥が「京都通信」という形で会津会会報(会津会雑誌)に丹念に投稿していたのです。そこに八重の生き生きした姿が描かれ、新城新蔵京都大学総長や旧会津藩士の姿が生き生きと描かれていたのです。参加者名もばっちり載っています。山本覚馬追悼式も載っています。
 その秋山角弥について八重顕彰会のホームページに書いた文章を見つけ猪苗代小学校の校長先生からHPに問い合わせがありました。そのメールの文面には「秋山角弥は猪苗代小を首席で卒業し、野口英世の2年先輩である。」と書かれていました。
それで探求心が呼び戻され探索が始まりました。新資料を集めている最中なので結果はわかりませんが大発見につながるかもしれません。
 校長先生の意図するところは校歌を作詞した秋山角弥の経歴を知りたいとのことですが、私は八重と野口英世との邂逅があったかどうかであり、呉越同舟のような感じですけど、双方にとってプラスになることであると思っています。
ちなみに秋山角弥は旧制盛岡中学の教師だったころ、石川啄木と金田一京助を教えています。その部分がある「啄木日記」はネットで公開されており誰でも見れます。そこから磐城女学校を経て関西の学校で教鞭をとり、八重さんと長い時間を京都會津会で共有することになるのです。秋山角弥が当時の猪苗代小校長にあてた手紙の日付は昭和11年、八重さんが亡くなったのは昭和7年。同志社栄光館で行われた八重の葬儀には間違いなく出席したことでしょう。本を上梓して10年後に偶然にもこんなめぐりあわせがあるとは。
そういえば、23日の会津まつりのことですが鶴ヶ城会館で見たことのあるような人に出会ったので「どこかでお会いしてませんか?」と尋ねたら、名刺を渡された。「他人の空似」であるが、その名刺には京都市議会議長とあった。私は名刺を持ち合わせてなかったので、翌日お詫びのしるしに昨年の八重顕彰会会報と名刺を郵送した。その方は高校の同級生によく似ていたのである。
(文責:岩澤信千代)

 

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