🗓 2024年03月13日
Uチューブで手当たり次第に動画を見ている。今日は江戸時代の長屋を見た。江戸時代の人口は武士とその他で半々だようだ。薩摩藩も土着した武士と農民と半々の構成だったような気がする。大体が長屋暮らしで井戸・トイレは共同6畳1間の家賃は400~500文。今の貨幣価値で月8000円~10000円だそうだ。現在の賃料と比較すると家賃の面では暮らしやすかった。道路に面しているところは商家として使われ、熊さんはっつあんが住んでいるのは裏長屋と呼ばれる。防犯防火の為木戸が設けてあって朝6時頃木戸が明けられるらしい。煮炊きは朝のみで、昼・夜は冷や飯、おかずは漬物・汁物で、納豆が出れば豪華飯だったそうだ。当初2食が普通だったが1657年明暦の大火以来3食になったようだ。復興に来た大工たちが一日2食では重労働に耐えられなかったから昼も食べたのℌが拡がったという。その頃屋台の蕎麦屋などができ外食が広まったという。屋台で稼いだ人が飲食店を開いたのだそうだ。
銭湯は男女混浴だが、老中水野の改革の時に男女別にしたようだが、別にしたら2階から女湯を除くものが続出したという。この関係は厳しくするとかえって妄想を増大させる。混浴の時は興味のなかったことが別にされたら欲情が出てきたということだろう。
午後6時に木戸が締められる。休日は1.15.25日の月3回だそうだ。トイレには権力者にとっては思索の場所であり政宗は2時間トイレに籠った。秀吉は黄金の便器を家来に自慢したという。江戸時代は将軍には公人朝夕人が付いたという。いついかなる時にも将軍が尿意・あるいは便意を催したときはすみやかにっ便器を差し出す役職があった。どうわけかその役職は信長の母親の実家である土田(どだ)氏が任命されたという。注目すべきは排せつ物が高額で取引されたという。新田の開発や二毛作の普及の為、肥料としての価値があったのだそうだ。江戸時代し尿業者は儲かったのだ。銭湯の推移を見ていると西欧化により混浴は姿を消した。あの米国ペリー提督が混浴を見て驚いたそうだ。
(文責:岩澤信千代)