🗓 2024年07月21日

 小牧・長久手の戦いは秀吉と家康の覇権争いであったが、家康善戦で終わった。天下人秀吉は戦いで決着をつけようとは考えなかった。替わりに家康に臣下の礼をとらせることにした。ところが家康は秀吉の何回にもわたる上洛要請に応じなかった。そこで思いついたのが築山御前を失ったあと妻帯してなかった家康に自分のj妹旭姫(異父妹)を家康の正室にすることであった。

 その時家康は条件を付けた。①旭姫に子供が生まれても徳川家の嫡子にしないこと②長松丸(秀忠)を大阪の人質にしないこと③秀吉が死んでも5か国(三河・駿河・遠江・甲斐・信濃)の安堵する。

 秀吉は家康の要求をすべてのみ、大政所の母親まで家康に人質として差し出した。

 その時旭姫は農民の嘉助とも源助ともいわれる男と結婚していた。長浜城主になった秀吉は妹の夫を引き立て佐治日向守と名乗らせた。その佐治に対し「天下の為である。妻を返すようにと秀吉氏の使者堀尾茂助と生駒甚助に告げられた。思い悩んだ末佐治は妻を大阪へ返し、そのあと腹を切って死んだと伝えられる。これには異論があり佐治日向守は心労で死に、そのあと副田与左衛門吉成に貸したともいわれている。

 その後、家康はようやく秀吉に会いに行った。そこで有名なエピソードが繰り広げられたのである。陣羽織を秀吉が家康に与え、「私がこれを着たら、太閤様に戦場に行かせません。」というようなことを家来が居並ぶ前で家康に言わしめたのである。

 妻を紹介され、返せと言われ、女性は政略の為に使われた封建社会の悲劇は数多い。旭姫は秀吉に似て美人とは云えなかったろうからいつの間にか大阪へ帰り亡くなった。家康との夫婦関係は自然消滅となった。20人以上側室が家康はいたと言われるので不細工な旭姫の元へは通わなかったことは十分に予想できる。但し、旭姫の肖像画らしきものを見るとそんなに不美人とも見えないところが救われる。

(文責:岩澤信千代)