🗓 2024年09月12日
今気が付いた。自動車事故を起こした日の事である。9月9日重陽の日であった。古来中国では9の数字を珍重した。オイチョカブでも強いのは9である。
9月9日は秩父宮妃殿下勢津子妃の誕生日である。皇室に嫁ぐことが決まって、賊軍とされた会津は歓喜に沸いた。昭和3年9月28日に婚儀が行われた。会津の人々は提灯行列で祝った。新島八重も有名な「御慶事を聞きて」という和歌を詠んだ。
皇室に嫁がれて会津に里帰りした時に東山温泉に宿泊館を作った。誕生日にちなんで重陽閣(ちょうようかく)と名付けられた。今、移築されて御薬園にある。9月9日はめでたい数字が重なるので古代から中国では吉兆の日と言われている。
そのめでたい日に陽ではなく陰が私には訪れた。陰が重なってしまった。なんと不幸な人間かと二日経って気が付いた。ああ、ナンタルチア、サンタルチア。
追加: 昭和3年11月10日に昭和天皇即位の大礼が京都で行われた。その時旧会津藩士が集合した。新島八重は金杯をもらった。黒谷金戒光明寺会津墓地で撮ったその集合写真が今に残る。皇室に松平容保の孫が嫁ぐことは賊軍と言われ長い間苦労を強いられた会津藩出身者にとっては本当の名誉回復となった。ちなみに勢津子妃の婚礼には会津藩関係者が東京の小日向第六天町(現在の東京都文京区春日二丁目)の松平保男子爵邸に集まった。八重も京都から駆け付け、前後に日本女子大で講演も行った。昭和3年は1928年、戊辰戦争は1868年丁度60年還暦の年に会津藩は長いくびきから解放されたのである。もう一つ付け加えると当時皇室に嫁ぐには華族出身でなければならなかった。勢津子の父松平恒雄は容保の子供であるが東大を出て外交官となったが、身分は平民であった。だからいったん本家の保男子爵の養女となり皇室に嫁いだ。勢津子妃の甥が徳川恒孝(徳川家18代当主)である。今は代替わりして19代が家広氏でテレビなどによく出ている。悠仁親王の母紀子様は会津藩士で大阪市長を務めた池上四郎の血筋の方である。皇室典範改正など議論されていてどうなるかわからないが、悠仁親王が天皇になれば、天皇家・徳川家は会津がらみとなる。
(文責:岩澤信千代)