🗓 2023年04月29日

中井けやき

 斗南藩少参事・広沢安任(1830天保元年~1891明治24年)

4月のある日、東京豊島区立郷土資料館の<過去から学び、今日を生き、未来に希望~「豊島大博覧会」~2023.5.28>に行った。
ところがあいにく休館で後日、大学の先輩といっても年下(筆者は中年で入学)の学芸員さんから資料が届いた。
そのパンフレット類の中に、牧場・牛乳瓶・牧場の半纏の写真があり次の解説があった。
―――明治中期から戦後間もなくまで、豊島区には延べ60ヶ所の牧場(牛乳搾取場)があり、大正期には東京を代表する牛乳生産地でした。・・・・(中略)・・・・・しかし、関東大震災を機に宅地化が進むと、まちの中の牧場は次第に姿を消していきました。

現在、JR・私鉄・地下鉄が入り交じる池袋駅は人が溢れ、近くのサンシャインシティ・東京芸術劇場・池袋演芸場、デパートに商店街といった状況からは想像もつかないが、明治の豊島区は郊外の村だった。
このかつて東京にあったという牧場の話で旧会津藩士、斗南藩少参事・広沢安任のことを思いだした。広沢も始めはこの辺で牧場をしていたような気がしていたが、そこから遠くない次の場所と岩澤様よりご指摘、感謝して掲載。
――― ネットで調べたところ*「広沢牧場*出張所を東京府豊島郡*淀橋村*角筈 (新宿区三井ビル辺り) に開所。 明治11(1878)年、「開牧五年紀事」を記す。 明治19(1886)」

広沢安任は元会津藩公用人、柴五郎・柴四朗(東海散士)兄弟の長兄太一郎の先輩であり上司である。

その広沢が下北半島に洋式牧場を開くと、そのころ英語を学んでいた柴四朗がイギリス人技術者マキノンの通訳兼案内人として、その青森の牧場へ赴いている。

斗南藩のはじまり、藩の移封地を決めるとき、猪苗代か陸奥か意向を聞かれた旧会津藩は、陸奥(斗南)を選んだ。
斗南を選んだ首脳の一人広沢安任、かつて幕府とロシアの国際談判に随員として同行した往復の間に「陸奥の国は広大にして開発の望みあり」と考えたのである。
広沢は幕末の京で活躍、交際が広く新政府内にも知己があり、進取の気性に富んでいた。
戊辰の敗戦後、江戸に残ると単身で西軍総督府に乗り込み、「諸外国が虎視眈々と日本の隙をねらっている。なのに兄弟垣にせめぐ戦いをしている場合ではない」と訴え、捕らえられ斬罪がきまるが、イギリス公使パークスの下で働いていたアーネスト・サトウが木戸孝允に口添えをしてくれて命拾いしたのである。

さて、旧会津藩士は斗南に移ったが生活はあまりにも困難であった。やがて廃藩置県となり多くがこの地を去ったが、広沢は斗南の地に残留する。
そして新政府に誘われても断り、「野にあって国家につくす」と北の大地に牧場を開いたのである。

次は『北辺に生きる会津藩』<近代農場を拓く 広沢安任>より。
―――安任は世に「*牧老人」と称する大農民であった。・・・・・会津藩の京洛時代にサー・アーネスト・メースン・サトウとの極めて深く、学者・政治家としても有能であり著書も多数あった・・・・・余談になるが、サトウの二子のうち兄英太郎は医者、弟*武田久吉は理学博士で京大等の講師を歴任、文化財保護委員会専門委員でもあった由・・・・・(p78に広沢の写真あり)。
*武田久吉に興味をもたれた方は次をどうぞ。
けやきのブログⅡ2021.10.9 “登山家・植物学者・尾瀬の父・武田久吉、父はアーネスト・サトウ”

1891明治24年2月5日、広沢安任(富次郎)は病気で世を去る。享年62。
同年6月、柴四朗の手で「牧老人遺稿」発行。
『廣澤牧老人遺稿』編輯兼発行者 福島県平民 柴四朗 東京府北豊島郡下駒込村千三百六十八番地寄留。
ちなみに、士族でなく平民、またペンネーム東海散士を用いず本名で編集発行しているのは、先達、広沢安任 への敬意からだろうか。
なお、『廣澤牧老人遺稿』は国会図書館デジタルコレクションで読める。