🗓 2022年10月01日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

1895年(明治28年)10月のこと、正岡子規は松山から東京に戻るついでに、4日間一人で奈良見物をしています。その際、法隆寺にも足を運んだらしく、11月8日の南海新聞には「茶店に憩ひて」という前書きに続いて、「柿くへば鐘がなるなり法隆寺」という有名な句が出ています。
 この句については何の問題もないと思われていました。というより、弟子達は誰もこの句を高く評価しなかったようです。というのも「柿くへば」と「鐘がなる」に何の因果関係も認められないので、凡作と思われていたのかもしれません。それこそが意表をつく発想という見方もできます。みなさんはどう思いますか。
 ひょっとするとこの句は、俳人仲間で称讃されたのではなく、法隆寺が観光客誘致のキャッチコピーとして宣伝に利用した結果、全国に広まったのかもしれません。併せて奈良県特産の「御所柿」(甘柿)の知名度アップにも貢献しているはずです。そして2005年、全国果樹研究連合会は、子規が奈良を訪れた10月26日を柿の日記念日に制定しました。
 ところでこの句の成立にまつわる資料が三つあります。一つはその2ヶ月前の9月6日の南海新聞です。そこに夏目漱石の詠んだ、「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」という句が掲載されているのですが、子規の句と似ていると思いませんか。そのため子規の句は、漱石のこの句を頭の片隅に意識して詠まれたのではないかといわれています。
 二つ目の資料は、河東碧梧桐がホトトギス誌上でこの句を評して、「いつもの子規調であれば「柿くふて居れば鐘鳴る法隆寺」とは何故いはれなかったのであらう」と述べていることです。それに対して子規は、「これは尤もの説である。併しかうなるとやや句法が弱くなるかと思ふ」(病床六尺)と答えています。
 三つ目の資料は子規自身が書き残した「くだもの」(『飯待つ間』所収)の中の一節です。「御所柿を食いし事」という見出しで、

 やがて柿はむけた。余はそれを食うていると彼女は更に他の柿をむいでいる。柿も旨い、場所もいい。余はうっとりとしているとボーンという釣鐘の音が一つ聞えた。彼女は、オヤ初夜が鳴るというてなお柿をむきつづけている。余にはこの初夜というのが非常に珍しく面白かったのである。あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるという。東大寺がこの頭の上にあるかと尋ねると、すぐ其処ですという。余が不思議そうにしていたので、女は室の外の板間に出て、其処の中障子を明けて見せた。なるほど東大寺は自分の頭の上に当ってある位である。

(岩波文庫175頁)

と書かれています。法隆寺で柿を食べたという記録がないこと、また子規が法隆寺を見物した日は雨だったことなどから、旅館(對山楼角定)で御所柿を食べながら聞いた東大寺の鐘が、法隆寺に移されているのではないかとされているのです。

 さらに「御所柿を食ひいし事」の前半部分に、

柿などというものは従来詩人にも歌よみにも見離されておるもので、殊に奈良に柿を配合するという様な事は思いもよらなかった事である。余はこの新しい配合を見つけ出して非常に嬉しかった。

(同174頁)

とある文面は、「柿くへば」の句を詠んだことを指しているように思えてなりません。いかがでしょうか。