🗓 2023年06月03日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

皆さんは6月10日が何の日だか知っていますか。はい、「時の記念日」ですね。残念なことに祝日ではないので、あまり馴染みがないかもしれません。では何故この日が「時の記念日」になったのでしょうか。
今から百年以上も前の大正9年、当時の文部省が「時」展覧会を企画したところ、生活改善同盟会や東京天文台・東京帝国大など数十の団体が協力して大成功を収めました。その会期中に提案されたのが、「時の記念日」を制定しようということでした。当時の日本は時間にルーズで、先進国から批判されていたからです。そこで何とか国民全体に時間についての関心を持たせ、規律正しく効率的な生活を習慣化させたいという願いから、「時の記念日」を設けようということになったのです。
そこで記念日をいつにするかということになりました。単に「時」ということでは、たとえば明治6年1月1日は、太陰太陽暦から太陽暦に変えられた日として候補になります。あるいは中国の宣明暦を改暦して、貞享暦を使用するようになった貞享2年(1685年)1月1日も候補の一つです。これは日本で初めて日本人によって独自に作られた暦だからです。私たちのよく知っている機械仕掛けの時計であれば、江戸時代以降に日本に入ってきました。それをもとに和時計も製造されています。
しかし「時の記念日」は、「時計」が候補となったようです。そこで日本で最初に時計を用いたのはいつかということになりました。調べてみると、話は今から1350年も昔に遡ります。大化の改新を行った中大兄皇子(天智天皇)が国を治めている時代です。当時、日本に時計はありません。さすがに中国ではすでに時計が発明され、運用されていました。それを日本でも使わせてもらうことにしたのです。
『日本書紀』天智天皇10年(671年)4月25日条には、次のような記事が出ています。
漏剋を新しき台に置き、始めて候時ときを打つ。鐘鼓かねつづみとどろかし、始めて漏剋を用ゐる。此の漏剋は、天皇の皇太子にします時に、始めてみづか製造つくれる所なり云々。
もちろんこれは今のような時計ではありません。もっと原始的な漏刻(漏剋)つまり水時計です。これを天智天皇が製造したとあります。そこで遡って調べてみると、斉明天皇6年(660年)五月条に、

皇太子、初めて漏剋を造り、民に時を知らしむ。

とありました。この皇太子が中大兄皇子です。ですから正しくは、これが日本最初の時計の使用ということになります。ところが日付を見ると、5月とだけあって何日かは書かれてありません。これでは記念日が決められないので、結局4月25日が選ばれたのでしょう。

もちろん4月25日は太陰太陽暦ですから、これを新暦のグレゴリウス暦に置き換えたのが6月10日だったのです。いずれにしても天智天皇の時代から、日本は時計の刻む時間で動いていたのです。もちろん日時計ならもっと古いことになります。
この漏刻は平安時代にも宮中で活用されていました。秒単位は無理ですが、三十分ごとに時の奏が行われ、それに基づいて宮廷は活動していたのです。ですから太陽が沈んでいる夜でも、比較的正確に時刻を共有することができました。特に午前三時の暁の始まりはまだ真っ暗ですから、時の奏がなければずいぶんずれてしまいます。
もっともそれは時の奏が聞こえる範囲に限ったことで、聞こえない場所では時計の恩恵に浴することはできません。ただ大きな寺院などでは、独自に漏刻を設置していたようです。『日本後紀』弘仁2年(811年)3月25日条には、大安寺の僧泰仙が漏刻を造らせたとあります。それによって寺の鐘を鳴らし、修行の時刻を知らせていたのです。ですから寺の鐘が聞こえるところでは、時間を共有できていたことがわかります。寺の鐘は長く時計の代りだったのです。