🗓 2024年09月28日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

みなさんは「天災は忘れた頃にやってくる」という格言(警句)をご存じですよね。では質問です。これは一体誰がいつ言ったものなのでしょうか。その出典は日本でしょうかそれとも外国でしょうか。そもそも「天災」とは、具体的に何を指しているのでしょうか。 矢継ぎ早の質問ですが、いかがですか。
 そこで調べてみたところ、この言葉は寺田虎彦が言い出したというか、常々口にしていた言葉とされていることがわかりました。そのため高知県にある寺田寅彦記念館には、この言葉が刻まれた石碑が建てられています。そこに彫られているのが、題に掲げた「天災は忘れられたる頃来る」というやや古風な言い方でした。寺田は若い頃に夏目漱石から薫陶を受けたことで知られています。『吾輩は猫である』に登場している寒月君は、この寺田がモデルです。それもあって専門の物理学研究だけでなく、俳人・随筆家としても活躍しています。
 ここで問題にしたいのは、寺田が「天災は忘れた頃にやってくる」とは書き残していないことです。というより、寺田の書いたものの中に似たような趣旨の発言はあるものの、「天災は忘れた頃にやってくる」というオーソドックスな記述は見つかっていません。そこで試みに国語辞典を調べてみると、『広辞苑第四版』(岩波)では「天災」の項に、「(天災)は忘れた頃にやって来る」と記述されていました。それが第五版以降になると、ようやく寺田寅彦の言葉であるという解説が付くようになっています。さらに第五版では、寺田寅彦記念館の「天災は忘れられたる頃来る」も併記されています。辞書にもこういった揺れが存していたのです。次に『日本国語大辞典』(小学館)を見ると、第二版から「天災は忘れたころに来る」「やって来る」と二通りの記述が記載されていました。また「中谷宇吉郎の『一日一訓』に寺田寅彦のことばとして取り上げたのが初めという」と解説も付けられていました。
 ところで肝心の「天災」の内容ですが、時代的には関東大震災を指しているようです。寺田が関東大震災(1923年)体験後に、災害研究を本格化させたことはよく知られています。そのため寺田は、災害と忘却との関係について日頃から次のように述べていました。「人間の忘却こそが災害を引き起こす」と。これが寺田の主張(持論)だったのです。ということで「天災は忘れられたる頃来る」に近い内容を、寺田が日頃口にしていたことは間違いなさそうです。早いものでその関東大震災から既に百年が経ちました。最近は阪神淡路大震災(1995年)、東日本大震災(2011年)、そして新型コロナ(2019年)、今年の能登半島地震と震災が続いており、忘れる暇もありません。
 ここまで来て、この問題は既に寺田自身にあるのではなく弟子たちの証言、中でも中谷の発言の揺れにあることに気づきました。そのことは初山高仁氏「「天災は忘れた頃来る」のなりたち」によって、中谷発言が新聞によって微妙に違っていることが指摘されていて、大変参考になりました。
 まず朝日新聞(1938年7月9日)には「天災は忘れた頃に来る」とあります。同じく朝日新聞(1944年9月1日)では「天災は忘れられた頃に来る」と変化しています。これがさらに読売新聞(1951年7月13日)になると、「天災が『忘れたころ』にやって来た」と異同があり、同じく読売新聞(1953年7月21日)では「天災は忘れたころにおこる」と変わっています。
 となると、この言葉は寺田がいったというより、弟子の中谷によって繰り返し新聞に掲載されたことで有名になり、しかもバリエーションが増加していったと考えるべきではないでしょうか。ただ石碑に彫られた「天災は忘れられたる頃来る」は、一体何を典拠としているのか、改めて疑問が生じてしまいました。現在一般に流通している「天災は忘れた頃にやってくる」にしても、読売新聞(1951年)から生み出された表現ということになりそうです。