🗓 2024年11月02日
吉海 直人
世界中の国の中で、自国の読みが統一されていないというのは珍しいことではないでしょう。前に日本では国歌が制定されていなかったことを指摘しましたが、それだけではなかったのです。これは国民性なのかもしれませんが、日本人は案外曖昧なところがあって、自国の発音について「にっぽん」でも「にほん」でもどっちでもいいと思っている人が多いようです。みなさんはどうですか。
そういえばアメリカのことを日本人は「米国」と書き、イギリスのことを「英国」と書いていますが、これは日本以外では通用しない表記です。同様のことが日本語教育の現場で生じています。外国人留学生の悩みとして、「日本」をどう読めばいいのかわからないという声がよく聞かれます。もちろん日本語教師はきちんと教えているのでしょうが、ひとたび町へ出た途端、まったく不統一で混沌としていることにいやでも気づかされます。
たとえば福澤諭吉が印刷された一万円札には「Nippon(Ginko)」とあります。「日本酒」は「ニホン(シュ)」、「日本航空」は「ニホン(コウクウ)」、「日本大学」は「ニホン(ダイガク)」なのに、「日本放送」は「ニッポン(ホウソウ)」、「日本郵政」は「ニッポン(ユウセイ)」ですね。またサッカーなどのスポーツでは、「日本代表」を「ニッポン(ダイヒョウ)」と使い分けられています。これを留学生に教えるのは大変ですよね。
中でも面白い現象として、東京で地下鉄に乗って「日本橋」駅で降りると、「Nihombashi」と案内板に書かれています。これが大阪に行くと「Nippombashi」となっています。どうやら関東では「にほん」派、関西では「にっぽん」派のようです。現状でこれだけ二つの読みが混在しているのですから、これを統一しようというのがそもそも無理な相談ですよね。
では何故このような二通りの発音が存在するのでしょうか。古く日本は「倭」の国であり、それを「やまと(大和)」と読んでいました。後に「日の本」「日本」という表記が用いられるようになりましたが、それは国内向けというより国外に対してのものでした。「日」は漢音「ジツ」、呉音「ニチ」です。「本」は漢音・呉音とも「ホン」しか読めません。「日本」は呉音の字音読みとしてまず「にっぽん」と発音されたものが、次第に促音を発音せずにやわらかな「にほん」に変わったという説が有力です。それとは別に平安時代は貴族の大和言葉として「にほん」であり、鎌倉時代になって武士が「にっぽん」というようになったという説もあります。これなら関東と関西の違いということも説明がつきます。
いずれにしても二つの読みは今日まで併用されてきました。それを近代になって俄かに統一しようという動きも生じています。昭和9年の文部省臨時国語調査会において、「日本」の読み方は「にっぽん」に統一されました。その際、例外的に東京の日本橋と「日本書紀」だけは「にほん」と読むことになっています。それに伴って、外交文書における国号の英文表記も、「Japan」(英語)から「Nippon」(日本語)に変更されました。当時は、日中戦争などが始まろうとしていた時期であり、軍部は「にほん」よりも「にっぽん」の方が力強く聞こえるからということのようです。「にほん」だと「二本」と同音になってしまうこともあげられます。ただし伝統的な和歌の文化を継承する皇室では、「ニッポン」のような促音は好まれませんでした(非歌語)。
この文部省臨時国語調査会の決定を受け、帝国議会でも審議されました。戦争中の昭和16年には、帝国議会で当時の国号「大日本帝国」の発音を「だいにっぽんていこく」と定める検討がなされましたが、最終的には保留のまま法律制定には至っていません。そして第二次世界大戦後の昭和21年、帝国憲法改正特別委員会において、「日本国」と「日本国憲法」の正式な読み方について質疑がなされた際、金森徳治郎憲法担当大臣(当時)は、「決まっていない」と答弁しています。戦後も読みは不統一のままだったのです。
その後、昭和45年7月、大阪万国博覧会を睨んで佐藤栄作内閣は、「日本」の読み方について「にほん」でも間違いではないが、政府は「にっぽん」を使うと閣議決定を行いましたが、やはり法制化にまでは至りませんでした。おそらく「にっぽん」とすることで、軍国主義化することが懸念・抑制されたのではないでしょうか。
そして平成20年に、読みをどちらか一方に統一する必要はないという答弁が行われ、複数の読みを許容することで現在に至っています。これに関してNHKの調査では、「にほん」派が61%で「にっぽん」派が37%でした。「にほん」と読む人の方が圧倒的に多いことがわかります。ただし当のNHKは、日本の正式な国名(国号)として、「にっぽん」を採用しています。これが日本の国民性、あるいは日本文化の特徴といえそうです。