🗓 2020年05月29日

(民報新聞社 2020.5.29 掲載)
(民報新聞社 2020.5.29 掲載)

山本覚馬の「管見」を口述筆記した西会津町野沢出身の野沢鶏一の晩年の写真が発見されました。

「新島八重遺墨展」を見に来られた方が、野沢鶏一のご子孫だったのです。

大龍寺の奥様から連絡があり、2.3日前にご本人様と会いお話を伺いました。

野沢鶏一は幼名斎藤九八郎といい大農家の出身ですが、当時野口英雄のやけどの手当てをした渡辺鼎の父渡辺思斎が開いていた「研幾堂」で学びました。長崎で医学を学ぼうとして故郷を出ましたが、京都で山本覚馬と出会いました。蘭学は京都で学べると覚馬に言われ、覚馬の主宰する洋学塾で学んでいました。その時臨時藩士に採用されました。その時鳥羽・伏見の戦いが始まり覚馬と共に薩摩に捕らわれ薩摩藩邸に幽閉されました。覚馬は会津藩の外交係をしていたので薩摩藩上層部にもその名が知らており、板の間の上に畳が敷いてあるところで毎日晩酌を出され、囲碁も出j来ました。ところが野沢鶏一などの下級武士は全く待遇が逆で薩摩藩の拷問にあってました。民報新聞掲載の写真で杖をついていますが、この時の拷問で足が不自由になりました。この時、盲目の覚馬は有名な「管見」を野沢鶏一に筆記させたのです。

戊辰戦後、野沢鶏一は覚馬の勧めもあり開成所(現大阪大学)に入り法律を学び、米国イエール大学を経て法律家として銀座で開業していました。有名な第二代衆議院議長星亨の妻と野沢鶏一の妻は姉妹であるので義兄弟の関係にありました。星亨は金権政治家と言われてましたが、死後その財産は貯金どころか借財ばかりで会ったということでした。星亨は剣術家によって刺殺されましたが、世間の噂と実態は違い清廉な政治家であったのです。星亨は国葬になり時の首相などが弔辞を読んだのですが、親戚代表として野沢鶏一が挨拶をしたようです。

戊辰戦争当時の世界情勢はイギリス・ロシアなど列強がアジア侵略に躍起になっていました。下手をすると日本も内戦をしている状況ではなく、新国家を作り世界の列強に負けない国にならなければ餌食にされる運命でした。

「管見」には女子教育・三権分立や富国強兵の策が述べられており、極めて革新性が高く先見性のあるものでした。

「管見」とは「へりくだって意見を申し上げます」という意味です。敗戦国会津藩の武士が勝者の薩摩藩主に「意見を恐れながら申し上げます」というう意味です。これを見た薩摩藩の小松帯刀や西郷隆盛は驚き、実際覚馬の意見が近代日本国家の建設の指針となったことは疑うべくはありません。ただ、私が残念に思うことは天皇中心主義の国家を作り上げていき昭和になり軍部の独走を止めることはできず、太平洋戦争の敗戦につながったことです。管見に「指導者の資質」についても書いておいて頂きたかったと思います。山本五十六や朝河寛一など先見性のある日本人が多くいたのに私は悔やまれてなりません。

いずれにしても明治維新後の日本国家建設の指針にもなった山本覚馬の「管見」の関係資料と証言が出てくることはとても素晴らしいことです。