🗓 2021年04月30日
飯盛山の自刃後、蘇生した飯沼貞吉は印出ハツの導きで敵の目を逃れ喜多方方面に逃れた。
途中塩川で重篤に陥ったが、駐留していた新潟長岡藩の軍医の手当て受け健康を取り戻した。
その後敵の目を逃れ隠れ住んだのがこの不動堂である。何もない山の中で生きながらえることができたのは近隣の人が食料を運んでくれたおかげである。
歴史好きの私は文献で何度も読んでこの話は頭に入っているのだが、実際には見たこともなかった。女房とドライブに来た時に何度か訪問しようと試みたのだが徒労に終わっていた。たまたま山田副会長の奥さんと話していたら、岩月出身だという。不動堂が思い出された。山田副会長が案内しようということになり、初めて実見できたのである。
驚いたのは、普通お堂の階段を上がると賽銭箱があり鈴がついているのだが掲額があるのみで、不審に思いながらも右手に回るとようやくお堂の入り口があった。お堂の中を覗きかつて飯沼貞吉がこのお堂の中で滝の音を聞きながら捲土重来を思っていたのかと想うと感極まるものがある。貞吉は体調を取り戻した後、鶴ヶ城内で戦った藩士が収容されていた猪苗代に向かった。
当時の謹慎者名簿の中には父である飯沼時衛とともに記載されている。その後、東京護国寺に父とともに収容された。その謹慎者名簿にもはっきりと名前が遺されており、長州の楢崎頼三に連れられ山口県に行ったという説は史実とは思えない。楢崎頼三の日記が残るが会津藩士が護送される前に会津を出発しており、楢崎頼三が山口県に到着する旅程と飯沼貞吉を連れて行く時間の系列が全く合わないのである。会津弁を話す少年がいたと証言した高見フサは完全な人違いである可能性が高い。