🗓 2021年11月29日
吉海先生の代表的な著書「暮らしの歳時記」に掲載されています。
「大和魂」について
日本人の精神をいいあらわす言葉として、よく「大和魂」が使われています。でも詳しく調べてみると、どうやら間違った使われ方をしていることがわかりました。
そもそもこの言葉の初出が何か知っていますか。実は意外にも『源氏物語』でした。少女巻に「才をもととしてこそ大和魂の世に用ゐらるる方も強う侍らめ」とあるのが、今のところ一番古い例とされています。これより古い例が報告されていないのです。
しかもその意味は「実務的な能力がある」です。たとえば『大鏡』には、藤原時平について「さるは、大和魂などは、いみじくおはしましたるものを」と語っています。時平は菅原道真を陥れた人ですが、それでも「大和魂」は身につけていたのです。
ところで、少女巻に出ている「才」とは漢才(漢学・儒学に通じていること)です。外来の文化に精通し、それを和風に応用するのがいわゆる「和魂漢才」でした。この熟語の初出は『菅家遺誡』とされています。漢学に精通していた道真にふさわしい言葉ですね。ただしこの作品は偽書とされているので、この熟語にしても到底菅原道真まで遡れそうもありません。むしろ江戸時代になって、国学者の谷川士清や平田篤胤によって広められた(歪められた)言葉のようです。その際、遣唐使廃止(唐才不要)を唱えた道真が「大和魂」にふさわしい人物ということで、創始者として祭り上げられたのでしょう。
これと類似した言葉に「大和心」があります。初出は『後拾遺集』所収の、
さもあらばあれ大和心し賢くは細乳につけてあらすばかりぞ(赤染衛門)
です。二つとも女性の作品が初出例であり、女性的な用法だったことがわかります。また『大鏡』には、「(藤原隆家は)大和心賢くおはする人にて」と記されています。なお隆家は政権争いで道長に負けた伊周の弟です。
この「大和心」は後に国学者本居宣長によって、
敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花
と詠じられたことで俄に有名になりました。もちろん宣長にしても、優美なものの喩えとして歌っています。
ところが幕末の戦乱期にあの吉田松陰が辞世の歌として、
かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂(留魂録)
と詠じたことから、大和魂の意味が男性的に大きく変容してしまいました。それは江戸時代後期に国粋主義と結びついた「大和魂」(忠義・愛国心)が、日本民族固有の精神として新たな意味を付与されたからです。ここから用法が歪められたともいえます。
「大和心」にしても、桜が美しくさっと散ってしまうことから、武士道精神や愛国心・軍人の潔さ(軍国主義)に強引に結びつけられて曲解されました(軍歌「同期の桜」)。でも無駄に命を落とさない、つまり散るのを惜しむことこそが「大和心」の真意だと思います。もう一度、平安時代の用法が見直されることを願わずにはいられません。
なお明治維新になって西洋の文化が導入されたことで、「和魂漢才」をもじった「和魂洋才」が唱えられるようになったことも付け加えておきます。導入すべきものが漢から洋に置きかわったわけです。
吉海直人