🗓 2020年12月05日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

これまで佐久の長女(八重の姉)は亡くなったとされていた。ところが佐久が亡くなった時の記録に、「二女、長は窪田氏に嫁し次は新嶋氏に嫁ぐ」(『追悼集Ⅰ』218頁)とある。「二女」は「次女」ではなく二人の娘のことである。これによれば、年の離れた長女(覚馬の姉?)は早くに窪田にとつぎ、八重とは同居していなかったことになる。その姉が後に覚馬を頼って京都に来ていたというわけだ。最初に姉の存命に気づいたのは、岩澤信千代氏(『不一』)かもしれない。
その姉のことは「鴨沂会雑誌」50号(女紅場創立四十周年特集)の中の、開校4年目に7歳で入学した岡田しげ子の懐旧談に、

新島八重子女史、山本うら子刀自、梅田千代子刀自、同ぬい子女史(梅田雲浜先生未亡人と令嬢)は機織や養蚕の先生でありましたと存じます。

と出ており、八重に続いて「山本うら子」という名前が認められる。これについて本井康博先生も、窪田に嫁いだ山本家の長女ではないかとされている(『八重さんお乗りになりますか』)。嫁ぎ先の窪田から旧姓の山本に戻ったというわけである。その窪田うらは女紅場で授業補として明治8年から18年まで働いていた(鴨沂会創立六十周年記念誌)。

また夫の窪田仲八は斗南藩の記録に名があり、おそらく廃藩置県の後に覚馬を頼って一家して京都にやってきたのであろう。うらが女紅場に就職したのも、仲八が府庁の属官を勤めたとされるのも(『黒い眼と茶色の目』)、覚馬の口添えがあったからに違いない。それに加えて、山本家の親戚で窪田義衛という同志社英学校初期の学生の存在も報告されている(『同志社校友同窓会報』大正15年1月)。「義衛」は覚馬の幼名でもあるから、ひょっとするとうらの息子ではないだろうか。
 そのうらには伊佐と清という二人の娘がいた。日比恵子氏「八重と教育」『新島八重ハンサムな女傑の生涯』によれば、明治9年に米国博覧会に出品された女紅場の生徒の作品中に、「覚馬厄介山本いさ二十二年三ヶ月」とあるとのことである。これが山本伊佐のことなら、伊佐は女紅場に在籍していたことになる。しかも卒業後、母うらと同じく女紅場の授業補として明治11年から17年まで勤めていた(鴨沂会創立六十周年記念誌)。
 もう一人の娘清については、『新島八重関連書簡集』(社史資料センター)の中に、

私姪きよ事家計不如意にして毎年齢を重ねる計り。他に相応の職業とてもなければ向後一身を処するの道を得ん為め看病婦となりたき志望をいだき居候処、幸にもデントン氏の御補助なし下さる事に相成り、昨年より入校し今年六月にて其課程の一半を終り、来年六月にて卒業に至るを楽しみにいたし居候処、図らずも先月同氏内計上の都合にて本期限りにて学費の給与をなされ難き様になりしとの御通知を受け、同人の失望言はん方なく日々前途の不幸を嘆じ居る事に有之候。元来同人の身上に付ては肉親の関係も浅からざる事に有之候へば、此際私方に於て見続き候は当然の義務に候へども、左様いたし度き事は万々に候へども如何にせん亡夫逝去以来余傷未だに癒えず、内外不如意の事のみ多く将来活計の道も未だ確と定まらざる場合に候へば、私方より続て学資を供給いたし候はんにもいと便なきことに候へば、

とあることに気がついた。ここに「私姪きよ」とあることについて、本井康博先生の『八重さん、お乗りになりますか』によれば、うらの子として窪田清の名前をあげられていた。

次に「看病婦」についてだが、きよは看護婦になるためにデントン先生から学資の補助を受けて看病婦学校へ入学したとある。これは京都看病婦学校のことだと思い、「京都看病婦学校卒業生名簿」を調べてみた。新島襄が亡くなった直後で、しかも「来年六月」に卒業というのだから、明治24年6月の第4回卒業生に目をつけてみた。
 その年は八名の卒業生があったが、残念ながらその中に「窪田(山本)清」という名は見当たらなかった。可能性としては、「奥澤キヨシ(京都)」と「大口(黛)清志(キチ)(群馬)」の二名があげられる。このうちの大口(黛)清志は、日清戦争の折に広島予備病院に従軍した看護師の一人として知られている。あるいは土倉から資金援助が受けられず、看護婦にはなれなかったのかもしれない。仮にもう一人の奥澤キヨシの方が該当するとすれば、八重は土倉から30円の学資金を出してもらい、予定通りきよを卒業させたことになる(後に結婚して奥澤姓になった?)。
 ところで何気なく卒業生名簿を見ていて、1年前の卒業生の名前に驚いた。明治23年6月の第三回卒業生は6名だが、そこに「角田(窪田)イサ(福島)」とあったからだ。これこそ窪田うらの娘伊佐であろう。この伊佐のことは、『新島襄全集3』所収の書簡に「又久保田おイサ様には」(466頁)と出ている。また徳冨蘆花の『黒い眼と茶色の目』にも、「飯島先生の夫人には姉さんに当る黒田のおくらさんの女でおきささん」(27頁)として登場していた。その伊佐が結婚して角田姓を名乗っていたとしたら、それで合致する(福島出身も符号!)。なお伊佐には安栄と信安という子供がいた。
 そうなると女紅場の授業補を辞めた伊佐は、その後看病婦学校に入学し、その後を追うように妹の清も看病婦学校へ入学したということで、話はすっきりする。なんだか推理小説の謎解きのような話なので、どこまで真実なのか保証の限りではない。というのも、八重が姉や姪達についてほとんど語っていない(語っている資料が見当たらない)からである。ところが現平安教会の記録に、窪田家の人々の受洗記録が残っていた。明治19年に仲八・以佐(伊佐)・清(きよ)の三人の名前がある(住所は上京区西三本木俵屋町)。翌明治20年には信安・うら・安栄の三人の名前が出ている。窪田(久保田)義衛はもっと早く、明治10年に同志社教会で新島襄から洗礼を受けている。全員クリスチャンになっていたのでる。
 なお伊佐の娘安栄は同志社女学校を卒業し、福島出身で同志社英学校を卒業した鈴木彦馬と結婚して、鈴木安栄になっている(本井康博氏『八重さん、お乗りになりますか』)。窪田家の人たちの消息がここまでわかったのは、すべて「八重の桜」のお陰である。