🗓 2020年12月12日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

昭和3年はちょうど戊辰の年だった。その年の9月、旧会津藩士にとっては待ちに待った嬉しい日が訪れた。旧藩主松平容保の六男恒雄の長女節子が、秩父宮雍仁やすひと親王と御成婚されたからである。皇族との結婚によって、朝廷との和解が成立したのだ。ここにおいて会津藩はようやく朝敵・逆賊という汚名を返上することができた。戊辰戦争から実に60年が経過してのことである。9月28日には、全国に散らばっていた旧会津藩士の関係者が鶴ヶ城跡に集まり、3万もの人が盛大にお祝いしたそうだ。それが現在の会津祭の始まりとされている。
 そもそもこれは、貞明皇后のおはからいによって行われたもののようである。というのも、大正天皇の皇子達の結婚相手を見ると、裕仁親王(昭和天皇)の香淳皇后は久邇宮朝彦親王の孫であった。高松宮宣仁親王の喜久子姫は徳川慶喜の孫である。そして三笠宮崇仁親王の百合子妃も幕臣高木正得の娘であり、いずれも佐幕派の子孫という共通点があった。ただし慶喜は、明治30年に早々と娘を皇族に嫁がせており、翌31年には明治天皇に拝謁しているので、生きているうちに汚名を返上していた。それに対して容保は、生前に汚名をすすぐことは叶わなかった。
 ところで節子の母信子は、佐賀藩主鍋島直大・栄子夫妻の娘である。直大は父直正によって、日本で初めて種痘を受けさせられた人として知られている。自ら子に施した種痘の成功を見届けて、直正は種痘の種を緒方洪庵に渡し、そこから全国へ広がったというわけだ。会津で種痘を受けた八重も、その延長線上にいたことになる。
 成長した直大はアメリカやイギリスへ留学し、外交官としての手腕を発揮している。岩倉使節団の折にも留学生として乗船していたので、新島襄とも面識があったと思われる。その直大とローマで結婚した広橋栄子は、娘も外交官と結婚することを望み、当時有能な外交官として活躍していた松平恒雄に信子を嫁がせた。栄子は侯爵婦人として社会奉仕にも活躍しており、明治20年に結成された日赤篤志看護婦人会の初代会長を務めている。その役員には大山捨松が名を連ねており、また八重も正会員であった。
 信子の娘松平節子は、父の赴任先ロンドンで生れたこともあって、英語は堪能であった。その節子に、貞明皇后から秩父宮との婚姻の話がもたらされたのである。当時、父の恒雄は華族ではなく平民であった。そこで叔父の松平保男(第12代当主)の養女となり、子爵の娘という体裁で婚儀に臨んでいる。その際、貞明皇后の御名「節子さだこ」と同漢字であることを避け、同音の「勢津子」に改名している。
 この縁組みを誰よりも喜んだのが八重であった。そのことは園田重賢が、

会津侯松平容保公の孫姫が秩父宮妃殿下となられた時、最も快心のえみを漏した一人は、我が新島夫人であったと信ずる。

(『追悼集Ⅵ』382頁)

と語っている。早速お祝いを述べるために、八重は単身上京した。その際、一等車を勧められると、白色(切符の色)は死を連想するからいや、二等車を勧められると、青色は病人の色だからいや、赤色切符に限ると言って三等車で行こうとしたのを、老体(八十四歳)の長旅を気遣って無理に二等車に乗せたそうである(『会津戊辰戦争』483頁)。

八重は勢津子姫御成婚の喜びを、

いくとせか峰にかかれるむら雲の晴れてうれしき光をぞ見る

と歌に詠んでいる。恐らく八重はこの歌を短冊にしたためて、何人もの旧友に贈ったのではないだろうか。