🗓 2019年09月10日

磐梯山

 

我々日本人の近くには山がある。確かにビルが多い都会や大平野では山が身近に見えない所も沢山あるにはある。青森県には太宰治が愛した岩木山、群馬県には赤城山など県内の各地から見える代表的な山がある。その県内を旅すれば必ずと言ってよいほどの県の山がある。悠久の年月を我々先祖はそのふもとで喜怒哀楽の人生をつづってきた。

北海道の「羊蹄富士」など姿かたちから日本人の大好きな「富士山」の名を結び付ける山も多い。今は新幹線、飛行機から富士山を見る事もできるが、交通手段の少ない明治中期以前は江戸時代の参勤交代や「お伊勢参り」などの宗教的なお参りなどを除き、人の移動も少なく、本物の富士山を見る事もなく、話も聞くこともなく人生を終えた人々も多かったろう。

単身赴任で静岡の清水市に2年間住んだことがある。そこは大変良いところで、アパートの3階に住んでいたのだが、玄関のドアを開けると真正面に富士山が見えた。只、いつでもというわけではない。温度が冷え切った冬季間がきれいなのだ。毎日富士山を仰いでの出勤。贅沢極まりない通勤であった。しかも会社まで歩いて5分。また、横浜から東京まで数年通勤したが、東急東横線に乗っていても電車の窓から、1、2月の天気の良い日は富士山が見える。住んでいた東海道新幹線「新横浜駅」ホームからもその期間はくっきりと富士山を見る事ができる。

群馬県の赤城山も多くの恵みを地元に与えてきた。裾野には明治時代から昭和にかけて開拓された農地が広い範囲で広がる。また山裾を走る道路は整備され道幅も広い。総理大臣を3人生んだ県の道路はよく整備されている。静岡県から山梨県に入る道路がある。県境を過ぎると突然砂利道から舗装された道路になる。当時山梨県では政界の大物有力者がいた。私が清水に赴任していた時からすでに15年以上経過しているので現在は静岡県内も舗装されているかもしれないが、当時、あまりの落差に政治力の差かと思った。群馬県桐生市に家族4人で5年、時を経て静岡県清水市に単身赴任で2年間サラリーマン生活を送った。次男は桐生市の厚生病院で生まれた。

会津には、民謡のおかげもあり国内でも有名な「会津磐梯山」がある。会津藩士も領民もみんな昼夜仰いで育った山である。八重さんもしかりである。山肌の雪が解けるころ「きつね」の姿があらわれる。その時になると、人々は田植えの季節が来たことを悟る。「種まき桜」と共に生活の種である農耕の時期を知った。

磐梯山は明治21年(1881年)7月15日に噴火し、500名弱の死者を出し、大規模な火山災害を起こした。その時の救援活動が、日本赤十字社の初めての平時出動であった。クリミア戦争をきっかけに、アンリ・デュナンが赤十字社を創立し、その精神は西南戦争をきっかけに敵味方なく負傷者を看病した佐野常民に引き継がれ、日本赤十社の創立に繋がった。赤十字活動は戦争時が中心であったが、磐梯山の噴火は「戦争」ではなく平時の災害に出動した国内最初の事例となった。郡山駅から現地までの交通手段がなく薬などの救援物資を大量に抱え、現地に向かった医師・看護団の苦労はいかばかりの事であったか。福島県赤十字社の記録に残る。

過去にそんな被害者を出した「磐梯山」を我々は今でも畏敬の念を以て望む。そして、石川啄木の歌を想う。

ふるさとの山にむかひて言ふことなし
          ふるさとの山はありがたきかな

東京上野精養軒で開催される会津会では、松平保久公も輪の中に入り法被はっぴを着て一緒に民謡「会津磐梯山」を踊るのが恒例となっている。

(文責:岩澤信千代)