🗓 2019年11月19日
山本覚馬について
今会員宛にアンケートを出して回収している。今後の顕彰活動に関しての参考にするためである。例えば会員名簿に名前を記載してもよいかなどのアンケートである。個人情報保護法の施行以来、個人の承諾なしに公表することには慎重にならざるをえない。
その返信されたはがきの中に「もう少し覚馬の資料を発表して頂けるとありがたい」があったのでこの稿を書きます。
私が「不一・・・新島八重が遺したもの」を上梓した時に資料を読んだ記憶により書きますので出典を明確にして書く学術的なものではありません。あらかじめご了承願います。
テレビの主人公が八重だったために覚馬は主役にはなりえませんでしたが、松重さん演じた覚馬はそれなりに存在感がありました。
当然テレビには出てこなかった話ですが、覚馬は会津にいた若いころは髪を長く伸ばし、風を切って歩くような若者でした。ある時温泉の好きな覚馬は東山温泉に湯治に行きました。そこで無礼を働いた下人を切り捨て御免にしました。この時藩がとった対応は覚馬に斬られて死亡した方に非があると判断し、覚馬は無罪放免になりました。
時代が過ぎて容保が京都守護職拝命後になるが会津藩の傑物町野主水が、京都に向かう道中、口論になり桑名藩主の家臣を無礼討ちにしました。桑名藩はご存じの通り松平容保の弟で戊辰戦争を一緒に戦った松平定敬が藩主です。自分の藩主容保の弟が藩主を務める藩士を斬ってしまったのです。この時には町野主水は牢屋に収容されました。京都所司代の牢獄か会津藩の牢屋かは知りません。ところが牢屋に町野主水がつながれていた時に、「禁門の変」(蛤御門の変ともいう)が勃発しました。会津藩が薩摩藩と共に長州を京都から追い出した戦いです。主水は脱獄して「伝家の槍」をもって戦いに参戦しました。戦い後会津藩の戦勝の報償がありました。何と「2番槍」となって表彰されました。「1番槍」は最前列で敵に突っ込んで戦死した窪田伴治です。本人は武士の身分ではなかったのですが戦功を認められ、代わりに子供が100石の上級武士になり日新館への入学を認められました。
八重さんの姉が嫁いだ家が窪田家ですがひょっとしたら伴治の縁戚かもしれません。しかし、町野主水がどうやって牢獄を脱獄出来たかまたどうやって「伝家の槍」を持ち出せたのか私には不明です。ご存じの方は教えてください。
この疑問に対してふと思い立ち中村彰彦著「その名は主水」を読み返してみました。ズバリその模様が描写されておりました。牢獄は京都守護職屋敷内にあり、若い牢番正平を半ば恐喝のように説得して開錠させた場面が描写されていました。この本はあくまで歴史小説なのですが、歴史のロマンが感じられるので、史実云々よりこちらを私は採用したいと思います。大変この本は面白いので皆さんにも一読をお勧めします。ちなみに本稿では主水としましたが「戊辰戦史」などに出てくる会津藩資料では町野源之助の名前になっており主水の名が使われるのは明治以降です。
さて、覚馬に戻りますが覚馬は大変「柿」が好きだったようです。庭に「柿」の木を植え、かつ床の間にも「柿」を描いた掛け軸をかけていたそうです。「見知らず柿」か普通の甘柿か迄はわかりません。葡萄酒も大好きであったようです。八重・覚馬には新しいものに対する抵抗感は持ち合わせておりませんので洋酒である葡萄酒が好物でした。
覚馬は盲目にかかわらず、刀剣の刃を指でなぞるだけでその刀の作者と制作年代がわかるというほどの鑑定家でもありました。覚馬の実質的妻であった「小田時江事件」がありますが次の稿に譲ります。
(文責:岩澤信千代)