🗓 2019年11月20日
山本覚馬 その2(小田時江事件)
徳富蘆花という文豪がいます。晩年の八重さんを親身に世話した徳富蘇峰の弟です。蘇峰は新島襄の有名な「自鞭事件」の当事者で、同志社にいずらくなり中途退学して東京に行き「マスコミの巨人」としてその生涯を終えました。蘇峰は東京に行くときに新島襄に旅費を借りに行きました。自分勝手な蘇峰の申し出を襄はやんわり断り、代わりに写真を渡しました。そこには「大人とならんと欲すれば、自ら大人とおもう勿れ」(神奈川県二宮の蘇峰記念館所蔵)と書いてありました。また周辺の人がすき焼き屋で送別会をやってあげ、当然襄は出席しませんでしたが、代金は襄の甥公儀が支払いました。いわば自分に反抗したともいえる蘇峰に対し、襄は教育者として思いやりをもって対応したのでした。
蘆花の出世作「不如帰(ホトトギス)」は「継子いじめ」がテーマであるが、主人公は山川浩の妹捨松をモデルにしている。山川捨松は薩摩出身の大山巌と結婚したが、先妻の子供の一人(大山信子)をいじめたという話である。八重といい、捨松といい会津藩関係者を小説の題材に取り上げやり玉にあげたのは言語道断であるが蘆花の文才を否定するものではない。
「黒い眼と茶色の目」(作者名は徳富 健次郎、蘆花の実名)という作品があり、まさにそれがまさに新島襄・八重家族・覚馬の娘山本久枝が主人公のモデルとして出てくる。京都協志社英学校→同志社英学校、飯島先生→新島襄、山本覚馬→山下勝馬、山本時江→時代、新島八重→お多恵さん、壽代→久枝と読めば誰でもすぐにモデルが理解できる小説である。蘆花は覚馬の娘久枝に惚れていて結婚したいと思っていた。南禅寺でのデートなどの場面が小説に出てくるが、実際に蘆花と久枝はデートしたかもしれない。その結婚に襄・八重は反対し、恋は実らなった。その「恨み節」がそのまま小説になったようなものである。
その小説は実話に近い部分があり、その中に山本覚馬が跡取り娘久枝(姉のみねは横井時雄に嫁いでいた、横井時雄は朝河貫一を早稲田で教えた、同志社3代総長)の婿にしようと会津から呼び寄せていた会津藩藩士の青年が山本家に同居していた。(小説では秋月隆四郎)
ある時、時江が体調を崩し医者に診てもらったのだが帰り際に「おめでとう、妊娠5か月です」告げられた。覚馬51歳、時江31歳の時であった。覚馬は身に覚えがないという。時江を問い詰めると初めは夕涼みに行ってどこのだれか知らない人に犯されたと言っていたが、問い詰めると久枝の配偶者となるべき青年と不倫をして妊娠したのを白状した。
これを知った八重と久枝の姉みね(四国伊予に住んでいたが京都に駆け付ける:小説ではお稲さん)が「臭い物に蓋をしてはいけません。」と言って頑強に反対し、離縁させた。覚馬が薩摩の京都藩邸に幽閉されていた時(時江18歳)から身の回りの世話をし、覚馬が有名な江戸の火消し新門辰五郎(娘が徳川慶喜の側室になる)の屋敷跡に住居を構えてからも献身的に歩行もできなくなっていた覚馬に尽くしてきたことに感謝していたので、覚馬は時江を許そうとした。襄も義兄覚馬の意を汲んで離縁を思いとどまらせようとしたが、上記のように八重・みね連合が優位を占め正式に離婚となった。久枝は覚馬が引き取り山本家の跡取りとなったが短命であり、今は同志社墓地に眠る。
さて、余談になるが
ちなみにこの稿には本顕彰会に関わることがいくつか潜んでいる。
第一に山本覚馬の長女みね(横井時雄の妻)が出てくるが、これは山本覚馬の妻うら(樋口家)との間に生まれた長女である。2女がおり夭逝した証拠が大龍寺の過去帳に遺っている。従って、京都で覚馬の妻になった小田時江との子供山本久枝は。正確には覚馬の3女にあたる。
また、明治4年に覚馬が存命であることを聞き八重・母佐久・みねは京都に行ったが、覚馬が小田時江との間に子供ができたことを知ったうらは京都に行かなった。これには異説があり農作業の手伝いに行った農民に乞われそこに嫁に行ったという説もある。
山本覚馬は会津藩の上士であるから同じ家挌を持つ会津藩士、樋口家から嫁を貰った。会津藩士の子孫である樋口副会長にうらさんと樋口家は何か関係があるのではと尋ねたが「会津藩には樋口家が15家あり、どこの樋口家出身かはわからないだろう。」とのことであった。
ついでに、樋口副会長は先年マツコ・デラックスが取材に会津に来て放映されたテレビ番組に出演されていたが、大叔父さんが世界で初めて「明太子」を発明された方である。今は福岡の「ふくや」とかが名物になっているが、明太子はもともとは会津藩士の後裔が発明したものであること知って頂きたい。
以上でわかるように本顕彰会の懐は深いのである。
訂正:前の稿で山本覚馬を演じた俳優を松重さんと書きましたが「西島秀俊」さんの間違いでした。松重さんは父親の山本権八の役でした。
覚馬の妻小田時江は覚馬と仲が良かった丹波出身の郷士小田勝太郎の妹です。勝太郎は親しかった覚馬の世話をするように妹時江を紹介したのです。この稿では時江としましたが、時恵・時枝と表記するものが他の文献に散見されます。
その後吉海先生より貴重な資料が届きました。その資料では除籍謄本の写真が載っておりそこには「時榮(ときゑのフリガナあり:嘉永6年5月7日生)と記載されておりますので、これが正しいと思われます。
(文責:岩澤信千代)