🗓 2019年11月22日

帰省

 
 田舎の長男に生まれた私は、子供の頃から「家を継ぐ」ということを教えられて育ってきた。祖母は私を「うちの太郎」と呼んだ。自分の名と違うと抗議すると「うちの跡取りだから、太郎なのだ。」と意に介さない。そんなわけで否応なしに子供の頃から惣領の意識を持たされた。23歳で就職し25歳で結婚したが、毎年の盆暮れには必ず会津に帰省していた。子供が小さい頃は、実家になじませようと子供と女房は早めに帰郷し1か月くらい会津で過ごしていた。

ある年に女房の都合で子供と一緒に帰省できなかったことがある。長男が小学3年生の頃か。毎年決まった時期になると会津に帰るものと思っていた長男は絶対にその意思を貫徹するという。そこで私たちは否応なく「一人旅」を決行させることにした。東京から会津に電車で帰るには必ず郡山駅で乗り換えなければいけない。当時は「特急あいづ」のみ。一人で大丈夫か?かなり不安であったが長男は強硬である。会津若松駅まで迎えに出た私の父母は長男(すなわち孫)の無事な姿を見て涙ぐんだという。

時が移り、転勤で札幌に住んだ。そこでも必ず盆暮れの帰省は欠かさなかった。問題は旅費であった。子供といえども料金は大人料金である。(札幌←→仙台)往復一人5万円
 4人家族で20万である。バブルの終わりころであるが、当時の給料からそう負担に感じることはなかった。札幌在住の時は父親が入院を繰り返したので私一人分であるが会津に帰る飛行機代も使った。それでも札幌に住んだことは良かった。道北以外は家族で北海道内を旅行できた。今は高級であるが当時会社が保養所の契約をしていたので格安で、できたばかりのトマムリゾートにも泊まった。それと夫婦げんかの決まり文句で「私は育児・家事も一生懸命やっているのにどこにも旅行に連れて行ってもらえない。新婚旅行だってハワイがブームだったのに、私たちは年寄りが行くような伊勢・志摩だった」そこで、私はそこで悠然と反撃する。「官費(会社の都合)で北海道に住んで旅行してきたではないか」これで妻の二次攻撃を避けることができた。私にとって札幌勤務は真に都合の良いことであった。

札幌に住んだ時の住所は北15条東15条の地下鉄の駅の真上のマンションであった。従って吹雪の時も外に出ず部屋に直行できた。ある吹雪のすさぶ朝の4時ころである「マンションの皆様、火事です。避難してください。」と消防の拡声器の声で目を覚まされ、私は急いでパジャマの姿で子供二人と避難した。漸くして妻がいないことに気が付いた。当時携帯電話はない。消防が「鎮火した」ことを告げたときに妻が現れた。「どうしていた?」と聞いたら「化粧していた。」と答える。見るとパジャマから普段着に着替えている。命と外見とどちらが大事かの判断基準がどこにあるのか、今でも妻の頭の中がどうなっているかわからない。命より外見が大事のようだ。「美徳以為飾」とは程遠く外見を大事にするようだ。ちなみに、翌日の新聞を見たら、「夜遅く帰ってきた住人が食事を作っていて、鍋を焦がしたボヤ」とのことであった。私と子供二人は吹雪の中、パジャマ姿で震えていたのだが結果的には妻の判断で良かったのである。

そのマンションにはもう一つ思い出がある。オリンピックマラソンが今問題になっているが、そのマンションの前の道路は「札幌マラソン」のコースになっていて、毎回マンションの前で「札幌マラソン」を観戦できたのである。そのころ女子マラソンの浅利 純子などなど一流の選手が参加していて間近に見ることができたのは幸運であった。生で見るマラソンのスピードは速い。姿が見えたと思ったらすぐに目の前を通り過ぎて行く。私の全速力の50m走よりはるかに速い。

「帰省」がテーマであったが話は飛んだ。いずれにしても、故郷に住んでいないから帰省の話があるのであって、よその土地に住むことによりいろいろ経験ができたことも事実である。

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(文責:岩澤信千代)