🗓 2020年05月16日
吉海 直人
明治20年の夏、新島襄と八重は北海道でゆっくり静養している。7月3日に到着した函館で、襄は八重を連れて国外脱出した思い出の埠頭を訪れ、当時のことを話して聞かせた。そこでポーター商会のポーターとも再会したようである。それ以外にも函館のエピソードはあった。あまり知られていないようだが、二人は翌4日(アメリカ独立記念日)に遺愛女学校の宣教師館を訪れ、そこで外国人宣教師たちと食事をしている。
襄側の記録にはこれくらいしか書き残されていない。しかし八重には別の出会いがあった。偶然かどうかわからないが、夫婦で訪れた遺愛女学校には、なんと元会津藩士の娘・雑賀浅が舎監兼裁縫教師として勤めていたのである。戊辰戦争以来20年振りに再会した二人は、昔話に花を咲かせたことだろう。その話の中で、幼馴染の日向ユキが結婚して札幌にいることも告げられた。キリスト教の導きによって、この後で二人は札幌で再会することになる。
その遺愛女学校だが、当初は「カロライン・ライト・メモリアル・スクール」と呼ばれていた。函館に来ていたハリス夫人が女子教育の必要性を外国伝道協会の機関紙に訴えたところ、ちょうど愛娘を亡くした駐独アメリカ公使夫人・カロライン・ライトがそれを読んで共感し、娘の教育資金として蓄えていたお金(1800ドル)を献金したのである。それを基金として明治15年に設立された学校ということで、当初は横文字の校名になっていたのである。
明治18年になって、日本にある学校なので日本名の方がふさわしいということになり、俳人の内藤鳴雪に依頼があった。鳴雪は学校設立の経緯を聞いて、それなら「遺愛」がいいだろうということで、「遺愛女学校」に決まったとのことである。ここまでの経緯は遺愛女学校のホームページにも掲載されている。
しかしこれだけでは、何故クリスチャンでもない鳴雪に校名を依頼したのか、そのあたりのことがわからない。幸い内藤鳴雪の『鳴雪自叙伝』16に、そのことが書き残されていた。それによれば、彼の弟で薬丸家に養子に出されていた兼三が九州で不祥事を起こしたので、養子縁組を解消させ、さらに苗字を宇野姓に改めさせ、遠く離れた函館の税関の雇員として働かせることになったそうである。それに続いて自叙伝には次のように書かれている。
(岩波文庫276頁)
これを読むと、鳴雪の弟が遺愛女学校の設立に絡んでいたことがわかる。嫁入りの費用なのか教育資金なのか、微妙な違いはあるが、教頭を務めていた弟からの依頼で鳴雪が名付け親になったというわけである。これなら納得できる。
こうして明治18年に遺愛女学校と改名されたのだから、襄と八重が訪れた時には既に遺愛女学校だったことになる。ここまで来て宇野兼三と雑賀浅は、同僚として同じ学校に勤めていたことまで明らかになった。しかも兼三の妻は会津藩出身とのことなので、きっと浅とも親交があったに違いない。ひょっとすると八重とも会っていたのではないだろうか。もう少し資料を探ってみる必要がありそうだ。