🗓 2020年09月23日

Uチューブで中村 嘉葎雄(なかむら かつお)主演の「米百俵」(小林寅三郎の天命)を見た。寅三郎が食料に事欠く藩士達を説得する場面は圧巻であった。
 少し背景を説明しよう。軍事総督河合継之助と小林寅三郎は親戚であった。北越戦争のクライマックスである長岡藩と新政府軍の攻防があるが、継之助と親戚とはいえ小林寅三郎と三島億次郎は和平派で新政府に恭順する意見であった。全権を任された河合継之助の考えは、新政府にも幕府軍にも与せず長岡藩の中立を目指していた。有名な「小千谷会談」で21才の土佐藩出身の岩村精一郎と交渉したのだが、継之助の意図するところは「長岡藩には幕府・新政府どちらにも与しない。会津を説得するから待ってくれ。」というものであった。しかし土佐藩出身の軍監の岩村は「単なる時間稼ぎだ。」と言って嘆願書も受け取らなかった。20歳も違う若造の足元に一国の家老である継之助は話を聞いてもらおうとした姿は悲しい。決裂後、継之助は何度も再度の面会を要望し慈眼寺の門前で取次を頼んだが門番に遮られ、仕方なく長岡に帰った。柏崎にいた山縣有朋の岩村に対する命令は「私が小千谷に行くまで継之助を引き留めておくよう。」とのことであったが、書面が岩村に届いたのは継之助が去った後だった。
 途中国境を警備していた三島億次郎に和平はうまくいったか問い詰められた。「新政府軍に軍資金3万両と私の首をもっていけば戦争にならないだろう。」という答えを聞いた億次郎は継之助が命を懸けて下した決断だと開戦に同意した話は有名である。
 継之助が主導した長岡城奪還作戦は北越戦争史上「長岡武士の義」の発露としてエポックメイキングが出来事であった。
 戊辰戦争後、新政府に敵対した長岡藩は7万4000石を2万4000石までに削封された。戦争後、当然武士階級は貧困生活を余儀なくされた。その中で支藩の三根山藩より見舞金として本家の長岡藩に米百俵(貨幣換算:270両)が贈られた。貧窮にあえぐ藩士に米を配分しても2.3日分でしかない。そこで大参事の職にあった虎三郎は学校の設立を考えた。貧困で苦しむ藩の将来のためには、新しい学校を作って国家のために活躍できる有為な青年の教育をすることが急務であると考えたのである。そこで藩論を説得して作ったのが有名な「国漢学校」である。新政府が教育の重要性に気づき教育政策を取り始めたのはずっとその後である。
 有名な山本五十六が座右の銘にしたのは「常在戦場」である。これは長岡藩の藩是である。長岡藩の藩祖牧野氏は徳川幕府を開く以前三河の時代から家康に長く武功をもって仕えた。「戦場では腹減ったから戦えないとか言っていられるか。」とこの「常在戦場」の掛け軸を背にして部下を説得する場面はとても感動的だ。離縁の形になっていた妻のお美代も藩士の妻たちを説得した場面もある。

会津藩は戊辰戦争で敗れた後、山川健次郎・高峰秀夫など教育者として活躍するなど、新国家建設のための有為な人材を送り出した。
 それは「日新館童子訓」を基本とした教育にあった。守護職時代京都でも、流刑ともいえる斗南藩でもすぐに日新館を作った。教育の重要性を深く認識していたからである。
 「日新館童子訓」の教師として母親が中心的な役割を担った。会津藩の教育の中心は女性であり家庭教育にその強さがあった。「什の掟」は男子の遊び仲間の規則である。新島八重子回想録で八重は「童子訓」を暗唱したときは「日新館童子訓を暗唱できた時は学者になったような気がした。」と述懐している。

(文責:岩澤信千代)