🗓 2020年10月24日
吉海 直人
『百一新論』という本があることをご存じだろうか。著者は、明治期の代表的な啓蒙思想家・哲学家として知られている西周(周助)である。西は津和野藩士だが、オランダ語だけでなく英語もジョン万次郎から習っている。文久2年には幕命を受けてオランダ(ライデン大学)へ留学した経歴がある。この時一緒に行ったのが、津田真道・榎本武揚・赤松則良らだった。
慶応元年末に帰国するまで、西は熱心に法学・哲学・経済学などを学んでいる。帰国後は徳川慶喜の側近として仕え、フランス語を教えたりイギリスの議会制度や三権分立について説明したりしている。また開成所の教授として洋学の手ほどきをしている。慶応2年には日本の近代化に必須の『万国公法』(国際法)を翻訳している(出版されたのは慶応4年)。これは漢訳本からの翻訳ではなく、西がオランダでフィッセリング先生から学んだもので、当然オランダ語からの翻訳であった(坂本龍馬が見たのは漢訳本)。
翌慶応3年、西が京都の四条大宮の更雀寺(雀寺)で洋学塾を開くと、五百名もの諸藩士が集まったという。それは迫りくる明治維新において、国際法を学ぶ必要性が高まっていたからであろう。その中の一人が山本覚馬だった。覚馬は勝海舟から西を紹介され、早速貪欲に西洋の知識を吸収することに努めた。その1年前、長崎でカール・レーマンやボードイン、ハラタマ、グラバー達から西洋のことを聞いて衝撃を受けていたので、西による『万国公法』の講義は覚馬にとって願ってもないことだったに違いない。
それもあって廣澤安任著『近世盲者鏡』には、「西周助・佐久間修理の京に在るに方ては、毎に就て疑義を質問せり。」という私淑ぶりだった(佐久間象山は元治元年に暗殺されている)。西の講義は『万国公法』に留まらず、「百学連環」『百一新論』(百教一致)にも及んだ。この『百一新論』は、百教を哲学によって統一するという西洋哲学の概論だが、問答形式になっているのは講義の体裁を踏まえているからであろう(文体も「ござる」調)。
西はここで「フィロソフィー」を「哲学」と訳している。これに限らず、西は哲学や科学用語を数多く翻訳している。蘭学者・宇田川榕菴が案出したものも多いが、「科学」「芸術」「技術」「理性」「本能」「感覚」「心理学」「意識」「知識」「概念」「帰納」「演繹」「先天的」「後天的」「定義」「命題」「還元」「分解」など、西の案出した訳語はもっと多く、その総数は五百語以上とされている。
翌慶応4年に鳥羽伏見の戦いが勃発すると、幕府側の覚馬は薩摩藩邸に幽閉され、そこで『管見』を口述筆記させたことは、前のコラム「覚馬の『管見』について」で述べた。西に学んだのは一年足らずのことであるが、この『管見』の中にも『万国公法』や『百一新論』の教えが反映されている。
釈放された覚馬は京都府の顧問(嘱託)となり、京都の復興・近代化に心血を注ぐことになる。そういった中で『百一新論』の出版も行っていた。これについては覚馬の手元に西の講義用草稿があったとする説もあるが、覚馬を中心とした受講生達の講義聞書から作成されたものではないだろうか。あるいは『管見』や「時勢之儀二付拙見申上候書付」などと同様、幽閉されている間に口述筆記されたのかもしれない。
覚馬は明治6年に、小野組事件で敗訴して収監されていた長谷知事と槇村権参事を救出するために、八重を伴って上京している。その間に西周宅も数度訪れており、その折に『百一新論』出版の許諾を得ていたようである。版本の刊記には「明治六年八月官許/同七年三月彫成」とあるので、8月には既に原稿が完成していた。
こうして山本覚馬蔵版(相応斎蔵)という体裁(私家版)で、西周著『百一新論』は出版された。覚馬による「百一新論序」は、友人(元会津藩士)で漢学者の南摩綱紀が代書したものである。なおその序の上方に「松菊舎木戸氏蔵書印」という木戸孝允の蔵書印が押してあることについて、『山本覚馬』(中公文庫)の著者・松本健一氏は、
(63頁)
と深読みされている。しかしながら他の版本に蔵書印は押されていないので、たまたま底本にしたものが木戸孝允所蔵の本だっただけのことのようである。いずれにしても覚馬が出版しなかったら、『百一新論』が世に出ることはなかったであろう。これも覚馬の手柄の一つと見たい。