🗓 2020年10月31日
吉海 直人
慶応2年9月29日、会津藩の軍備を補強するため、覚馬は中沢帯刀を伴って長崎へ向かった。長崎に到着したのはその年の12月のことであるから、2か月以上かかっていることになる。そこで覚馬はプロシア(ドイツ)のレーマン・ハルトマン商会のカール・レーマンからゲベール銃1300挺の買い付け契約を取り交わしている(内300挺は紀州藩用)。その約定案(契約書)が長崎のシーボルト記念館に保管されていた。日付は慶応3年4月朔日となっている。これは西暦に直すと1867年5月4日である。なおハルトマンはハラタマのことではなく、ドイツ人のオスカー・ハルトマンのことである。
それ以前の慶応3年1月27日、覚馬と中沢はレーマンを伴って兵庫に来ている。それは会津藩家老の田中土佐(玄清)にレーマンを引き合わせるためだった。こうして契約が整ったわけだが、その一週間後の西暦1867年5月11日付けの覚馬宛のレーマンの手紙には、家老(田中)から兵庫に造船所を設ける話が進んでいることも書かれている。というのも、レーマンは造船技術にも長けていたからである。
残念なことに戊辰戦争が始まったことで、ドイツから買い入れるはずだった銃は会津藩では300挺しか入手できなかった。もし残りの700挺が届いていたら、戊辰戦争はもっと長引きもっと激化していたかもしれない。
覚馬にとっては2ヶ月足らずの長崎訪問だったが、長崎での体験は決して小さなものではなかった。実は覚馬が長崎をめざしていたのは、銃の買い付け以外に自らの目の治療という目的があった。というのも、眼科専門のオランダ人医師ボードインが当時長崎の精得館に赴任していたからである。
しかしながらボードインの診断は、治る見込みはないというものであった。それでも西洋の進んだ医学に触れたことは、覚馬にとって大きな収穫であった。覚馬は長崎滞在中にレーマン、ボードイン以外に、オランダのハラタマ、イギリスのグラバーなどにも接しており、そこからさまざまな西洋の知識を吸収していた。
その体験があったからこそ、慶応3年に西周が京都に洋学塾を開設した際、「万国公法」や「百一新論」の講義を誰よりも熱心に聴講したのだ。それが明治7年の『百一新論』出版に結実するわけだが、決してそれだけに留まるものではなかった。
その後、鳥羽伏見の戦いが勃発し、覚馬は薩摩藩邸に幽閉の身となるが、そこで明治維新後の日本の将来を憂慮し、新政府宛てに『管見』(建白書)を書きあげた。その「撰吏」は、「フロイスのレーマン嘗て余に書を送て曰」と書き始められている。また「建国術」には、「フロイスの人レーマン聞アメリカにては」「和蘭の人ハラトマ(ハラタマ)に聞イギリスの富を致すは」「和蘭のホードイン(ボードイン)、イギリスの人コロール(グラバー)等に逢ふて事を聞くに」と引用されている。さらに「救民」にも、「蘭の人ホードイン崎陽へ来りし時」とボードインが引用されている。
ここに名の上がっている外国人は、すべて覚馬が長崎で直接面識を得た人たちであった。その貴重な見聞を『管見』執筆に活かしていたのである。それのみならず、カール・レーマンとは明治維新後の京都でも引き続き協力し合っている。武器商人から貿易商になったレーマンから、活版印刷機を購入した話はよく知られているし、覚馬の車椅子もレーマンに作ってもらったといわれている。
レーマンは商品以外に人材も派遣している。医師のヨンケルや化学者のワグネルのみならず、弟のルドルフ・レーマンまでもドイツ語や数学の教師として派遣している。明治5年に木屋町の療病院に赴任したヨンケルは、早速診療を始めた。これが京都府立医科大学の始発であった。ワグネルは舎密局で化学工芸の指導や理化学の講義を行った。また理化学機器の製造も行い、彼の指導を受けた島津源蔵は後に島津製作所を創業している。
覚馬にとってレーマンの存在は、京都復興に欠かせないものだった。しかしそのレーマンは明治7年に42歳の若さで亡くなっている。