🗓 2020年10月17日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

大河ドラマ「八重の桜」で、長谷川博己演じる川崎尚之助のやさしさが印象的であった(現在は「麒麟がくる」で明智光秀を演じている)。これまで同志社では、尚之助の存在がほとんど話題に上らなかった。というより、敢えて言及されなかったというのが正解かもしれない。というのも、会津若松市における八重の存在は、同志社にとってほとんど不要だったからである。それ以上に、八重が川崎尚之助と結婚していたという事実は、校祖新島襄の妻の履歴として好ましくないと判断されていたのかもしれない。
 図らずも「八重の桜」の放映によって、八重が再婚だという事実は全国的に知れ渡った。同時に前夫川崎尚之助に対する関心も急激に高まった。そのことは同志社のみならず、会津若松市においても同様であり、放映以前の尚之助についての関心・認知度は極めて低かった。いや低いどころか、尚之助に対して冷たかったとさえ言える。その第一の原因は、尚之助が会津藩士ではないと見なされていたからである。そのため鶴ヶ城開城に際し、会津藩士以外は無罪放免になっているので、尚之助も八重と別れて行方不明になったと説明されてきた。
 しかしながら「八重の桜」効果によって、尚之助が歴とした会津藩士であった証拠資料がいくつも発掘された。それを見ると、開城後も会津藩士として東京で謹慎生活を続けた後、1870年(明治3年)に斗南藩士として斗南(青森県)に移住していたことまで明らかになった。だから会津若松市では、そのことをきちんと公表し、あらためて尚之助を会津藩士・斗南藩士として復権させていただきたい。
 ただし尚之助について残されている資料は少なく、特に若い頃の記録は皆無に近い(出自を隠していたわけでもあるまいが)。わずかに残っているのは、広沢安任氏『近世盲者鑑』(博聞社)明治22年11月刊の覚馬伝に、

河崎尚之助は但州出石の人なり。故ありて藩に来る。亦蘭書を学び技術に長せり。覚馬相得て大に悦び延て之を其家に寓せしめ共に講習切磨せり。

(12頁)

と出ているくらいである(「故ありて」が曲者)。この記事によって、尚之助が覚馬の家に仮寓していたことがわかる。また「会津会会報」20・大正11年6月には、古川末東氏が尚之助の消息談を掲載している。それは次のようなものである。

川崎尚之助は初め正之助と称し、尚斎と号す。但州出石藩医師の子なり。我藩に来り藩祖土津はにつ公のいみなを避けて之を改む。〈中略〉尚之助は性洒落才気縦横適々として可ならざるはなし。和歌を能くし且つ翰墨に巧みなり(大沼親光談)。斗南に移りし後、大に為す所あらんと欲す。而て事外人に連り却て累を受けしが、事遂に解く(小川渉筆記)。廃藩の後、東京に出て浅草鳥越に寓す。赤貧洗ふが如く三食猶且つ給せざるに至る。〈中略〉尚之助の鳥越に在るや従容しょうようとして吟詠自ら遺る。曾て左の狂歌を詠ず(大沼親光談)
  このごろは金のなる木のつな切れてぶらりとくらすとりごえの里
  今日はまだかてのくばりはなかりけり貧すりゃどんの音はすれども
其字頗る巧妙以て才藻の一斑を窺ふに足らん。然れども毎に稿を留めず。故に散逸して伝はらず。真に惜むべきなり。
明治八年六月下浣(下旬)病て東京に没す。享年三十九。浅草区今戸町称福寺に葬る。子なし弔祭するものなし。

(「古川春英と川崎尚之助」)

これによれば、尚之助の出自は出石藩の医師の子であること、「正之助」の「正」という漢字を、藩祖・保科正之公に遠慮して「尚之助」に改名したこと、狂歌を詠んでいること、書が巧みだったこと、明治8年6月に東京で亡くなったこと、享年39だったこと、そして浅草の称福寺に埋葬されたことなどがわかる。会報にこれだけ書かれているのだから、もっと早くに尚之助を復権させることもできたはずだ。
 しかしながら会津若松市は一向に重い腰をあげなかった。それに対して兵庫県豊岡市はすばやく動いた。それは尚之助が出石出身だったからである。出石町では平成25年1月、大河の放送開始に合わせて、願成寺の山門横に「川崎尚之助供養の碑」を建立した。これまで尚之助の出自を出石藩士の子としているのは、会津会会報の文面から判断したものであろう。出石藩出身であることに間違いはないが、尚之助を出石藩士川崎才兵衛の子と断定し、生家や墓まで特定するのはかなり無理があるのではないだろうか。今後、尚之助の資料が見つかることを願っている。