🗓 2020年10月10日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

明治15年(1882年)7月7日、襄と蘇峰は中山道の寝覚の床で蕎麦食い競争をしている。7月11日、先に安中(群馬県)へ来ていた八重は、そこで襄一行を出迎えた。これが八重の最初の安中訪問であった。もちろん襄の家族は既に京都にいるので、有田屋(湯浅家)に宿泊した。
 そこから二人は、八重の故郷会津若松市(福島県)まで足を伸ばしている。会津の町並みはすっかり変わっていた。もちろん八重の実家も残っていなかった。そのため会津若松市では七日町通りの清水屋旅館に宿泊している。この時、姪のみねと結婚した教え子の伊勢(横井)時雄も一緒だったので、父権八の墓前で結婚の報告をしたのではないだろうか。あるいは離縁したうら(みねの母)と密かに再会した可能性もなくはない。ただし八重は、この折の会津訪問について一切語っていないので、昔なじみに会えたかどうかも不明である。ひょっとすると、

帰らざることとしれどもいくたびか思ひいだしてぬるる袖かな

は、この時に詠まれた歌かもしれない。もちろん襄が亡くなった後に、亡夫を想起して詠んだ歌とも解釈できるのだが、さてどちらがこの歌にふさわしいだろうか。
 一方の襄は、その折に見た鶴ヶ城(城跡だけ)の歴史を、

 蒲生氏郷の築きし所にして、戊辰の役城主会津侯徳川氏の為に義を守り、官軍に抗し京師に戦ひ利あらず、退て白川に於て防禦し、又敗れて会津地方に入り、諸方の口々を守りしも亦利あらず、軍を率ひて籠城し、三十日の久しきを支へたりしも、旧暦九月下旬俄に寒気を生じ、非常の霜を降らしたれば、官軍は越冬の用意なく、又積雪の多からん事を恐れ、遂に和を催し会津侯をして降臥せしめたり。当時の石垣は依然として存す。

(『新島襄全集5』224頁)

と『遊奥記事』にまとめている。同様のことは、長岡(新潟)で伝道していた時岡恵吉宛の書簡(明治23年1月17日)に次のように記している。

小生は明治十五年初めて会津若松に遊び、官軍之為めに陥いられたる孤城を一周し、又生き残りたる人々にも面会し、当時の有様を聞き、会津藩人の如此も宗家徳川氏の為に官軍に抵抗し、白骨を原野にさらすも顧みざるの勇気には大に感服致し、其時より会津人に向ひ非常のシンパセーを顕はし、其れより該地伝道の事を主唱したり。但し余は気骨ある人間を称賛するなり、会津を称賛して官軍に抗する訳にはあらざる也。

(『新島襄全集4』353頁)

襄はその直後に亡くなっており、この手紙が生前最後の手紙となった。この時、襄に当時の有様を語った会津人というのは、一体誰のことだったのだろうか。もちろん襄が称讃する会津人の一人に、間違いなく八重も入っていた。この旅行以降、襄は会津若松市をキリスト教東北伝道の拠点と考え、その後精力的に弟子を派遣して伝道活動を行っている。
 後に会津出身の兼子重光も牧師に就任している。襄の遺志は教え子達によって継承されていたのである。なお現在は同志社女子大学出身の福山裕紀子さんが牧師に就任しておられる。