🗓 2020年10月03日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

文久2年(1862年)閏8月に京都守護職に任じられた松平容保は、その年の12月、会津藩士千名を率いて上洛して守護職となった。さらに市中見回りのために浪士隊を結成しているが、これが後の新選組である。容保は幕府側の人間として、京都の治安を守るために懸命に働いた。その結果、京都は血なまぐさい殺戮の場と化したのである。
 当初、容保は守護職への就任を再三固辞したが、「家訓かきん」を持ち出されたことで引き受けざるをえなくなった。「家訓」とは、初代藩主である保科正之(土津公)が寛文8年1668年)に制定した十五ヶ条で、その第一条に会津藩は将軍家に忠義を尽くさなければならないと記してあったからである。
 容保はその時のどうにもならない心境・苦悩を、

  行くも憂し行かぬも辛し如何せん君と親とを思ふ心を

という和歌に詠じて父義健よしたつに送っている。
 そのことを踏まえた上で、会津の皆様には大変申し訳ないが、京都での容保の評判は極めて悪かったようだ。それを知りうる資料の一つに、当時の京都で出された落書をあげることができる。落書とは為政者に対する風刺・批判を書いた貼紙のことだが、そこで容保は奇怪な野獣に見立てられている。
 その落書の一つを紹介したい。それは『実相院日記』の慶応元年(1865年)5月9日条に書き写されたもので、以下のように辛辣に書かれている。

  怖獅子花畑にて一橋戯
  近年、図の如く成獣、美濃の山中より生れ、夫より東国の深山に成長して田畑をふみあらし、武蔵野へ出て獏といへる獣と馴合、近頃山城の国叡山の麓に来り住。其形チ馬(の)如く鹿の如く、異国の獅子に似る。依之異人中よし。今は其勢ひ強く顔も大にして鼻高く耳至而近く、物を嗅出す事別て早く、眼は大いなれども明らかならず。面体人間に似たる故に一名人面獣心と云ふ。惣身あをいけにして尾長く、初の程は十分尾を隠せ共、今はかくすによしなし。尾を出して徘徊す。四足の爪長く、尖し。忠臣義士を毎々疵付ころす。

『実相院日記』には、お寺のこと以外に京都におけるさまざまな風聞が記録されており、当時の京都を知る上で貴重な資料となっている。さて、これを読んで落書の面白さがどこまで理解できるだろうか。まず日記に書かれている「獣」(獅子)は、橋(一橋)の上に載っており、顔に「会」の文字、背中に「津」の文字が読み取れる(合わせて会津)。「美濃」に生まれたというのは、容保が美濃国高須藩(岐阜県海津市)松平義健よしたつの六男であることを意味している。続く「東国の深山」は会津藩のこと、「武蔵野」は徳川家のこと、「獏」は「幕」府の喩で、おそらく徳川慶喜のことであろう(見出しの「一橋」も同様)。
 「山城の国叡山の麓」は京都のことで、京都守護職として着任したことを指す。「馬の如く鹿の如く」は文字通り「馬鹿」の喩である。「あをいけ」は青い毛だが、もちろん裏に「葵家」をもじっている。末尾の「忠臣義士を毎々疵付ころす」というのは、配下の新撰組の仕事ぶりであろうか。いずれにしても随分辛辣かつ批判的な記事である。
 この落書を見れば、京都における会津藩というか容保の評判がかなり悪かったことが読み取れる。実はこれと同内容の落書が、京都府の歴彩館と山口県の毛利家文書の中にも所蔵されており、かなり出回っていたものだったことがわかる。これも会津藩の裏面史の一つなので紹介する次第である。