🗓 2020年09月26日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

徳富蘇峰(猪一郎)の弟徳冨蘆花(健次郎)は、10歳の時に兄に導かれて同志社英学校に入学したものの、2年後に兄と一緒に退学している。18歳になって同志社に再入学した蘆花は、そこで山本覚馬の次女久栄と出会い、互いに惹かれあったらしい。しかしその仲を八重や蘇峰たちに引き裂かれたことで、またもや同志社を中退している。
 後に当時の思い出を『黒い眼と茶色の目』(新橋堂)という小説に仕立てている。「黒い眼」は新島襄のこと、「茶色の目」は山本久栄のことである。出版されたのは八重が数えで古稀の年(大正3年刊)だった。内容を見ると、久栄との一件に対する恨みからか、八重についての描写には悪意が感じられる。たとえば八重が「鵺」と呼ばれたことについて、以下のように脚色して酷評している。

会津から京都に帰り咲きした協志社々長の夫人は、黒からぬ髪を真中から二つに分け、眼尻の下つたてらてらと光る赤い大きな顔と相撲取りの様に肥えたからだを、たまには荒神口の赤坊室に見せていた。敬二は其の姪にた下り目をもつ此寿代さんの叔母さんを、十一の時から見知った。髪を只中から二つに分けて西洋婦人の様に大きな飾付の夏帽をかぶり、和服に靴をはいて、帯の上に時計の鎖を見せた折衷姿を、創業時代の協志社生徒はぬえ、鵺と呼んで居た。偉い人の妻に評判の好いのは滅多にない。飯島夫人の評判は学生間にははなはだよくなかった。一廉ひとかどの内助のつもりで迎へた婦人が思ひの外で、飯島先生の結婚は生涯の失望である、と云ふ事が誰言ふとなく伝へられた。夫人がお洒落で、かはつた浴衣ばかり一夏に二十枚も作つたの、大きな體にみなぎる血の狂ひを抑へかねてのっぺりした養子の前を湯上りの一糸をかけぬ赤裸で通ったのと云ふ様な如何いかがはしい噂は、敬二の耳に入つて居た。敬二も何時となく夫人に敬意を失ふた。佳人之奇遇を見る毎に、敬二は「烈婦」の後半生をIronyと思はずには居られなかった。

(『黒い眼と茶色の目』187頁)

ここに上げられている「協志社」はもちろん同志社のことで、「飯島先生」は新島襄のことである。また「寿代」は「久栄」のことである。「飯島先生の結婚は生涯の失望」といい、「養子の前を湯上りの一糸をかけぬ赤裸で通った」といい、悪意のこもった文章といわざるをえない。ここに引用されている「佳人之奇遇」は、八重の「明日の夜は」歌が掲載されている東海散士の小説のことである。そこで「烈婦」とされていた八重の後半生を、蘆花は「Irony」としている。よくもこれだけの悪口が平気で書けたものである。
 もう一箇だけ、『黒い眼と茶色の目』から引用しておこう。

先生が先年欧州漫遊中瑞西スイスでアルプスの一峰に上り、心臓病を発して倒れ、通りかかりの一外人の助を求めたら看過ごしにされ、いよいよ最期と覚悟をきはめ、愛する協志社諸君を思ひ、ワイフを思ひ、と云った時は、演壇の傍に居た大きな夫人が両手で顔をおおふて泣き出して、敬二に不快な感をあたへた。

(138頁)

「先生」は新島襄のことである。襄はアルプスの山中で突然心臓発作を起こし、九死に一生を得た。その体験を礼拝で語った際、「愛する協志社諸君を思ひ、ワイフを思ひ」といった途端、「演壇の傍に居た大きな夫人が両手で顔をおおふて泣き出し」た。その女性こそは八重である。八重は襄の言葉を聞き、感極まって泣き出したのだろう。その態度を不快に思った蘆花の方がよほど不人情ではないだろうか。
 どうやら八重はこの本を読んだらしい。そのことは蘆花の『蘆花日記』に、

京都で新嶋未亡人外四五人の会に〝黒い眼〟の話が出て、未亡人が〝いゝ恥さらしですね〟と云ふたさうだ。

(『蘆花日記』大正4年4月15日409頁)

とあることからも察せられる。蘆花の悪意は八重が最初ではなかった。それに先立って明治33年(1900年)に書かれた『不如帰』(民友社)では、主人公浪子(モデルは大山信子)を迫害する継母(モデルは大山捨松)が描かれており、この小説のために大山捨松はひどい風評被害を蒙っている。
 なお同志社は、初期同志社のスキャンダルが暴露されている『黒い眼と茶色の目』を読んではいけない本(禁書)に指定したというデマが流れているようだが、少なくとも私はそんな噂を耳にしたことはなかった。