🗓 2020年09月19日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

丹羽圭介という京都人をご存じだろうか。丹羽の名は、山本覚馬が英文の京都案内記を作成した際、

著者は山本覚馬出版者は丹羽圭介である。(『改訂増補山本覚馬伝』)

と出ている。この丹羽のことを知る手掛かりは、慶応義塾にあった。明治42年6月に実業之世界社から出版された『慶應義塾出身名流列伝』の中に、丹羽圭介の記事が写真入りで掲載されている(149頁~150頁)。長くなるがその記事を紹介しよう。

京都商品陳列所長 丹羽圭介氏 京都市下京区本町通一六ノ一四 (安政三年生)
 苟くも耳目に觸るゝ物は其細大を論ぜず、之を穿たざれば止まずと云ふは氏の特質なり。氏の多趣多方面なるは、則ち此特性の然らしむる所にして、氏の経歴は曲折あるも亦之が為めなり。氏は京都の人少時頗る腕白を以て聞ゆ、十三歳京都の儒者山本秀夫氏及山本章夫の両氏に就きて詩文及び本草学を修む。本草学とは即ち今の博物学にして當時は漢約書籍を用ゐ、而して単に禽獣草木介石の名を知らしむる位にしか過ぎざりしが、氏の研究心は日を追ひて博物学の趣味を覚え、遂に西洋の博物書を読まんと欲し京都の新英語学校に入る。同校に在るや間もなく京都府令選抜に依り農牧講習所に入り、英人教師より農学及実地講習を為せり。其間大に産業を発達せしめて国富を増進せんとするの念浮び即ち富国の道を講ぜんには(農牧講習所に入りしは十五歳の時)国法を研究せざるべからざるを感じ、其當時の洋学者山本覚馬氏に就きて法学を学ぶ。山本氏は会津の人にして傑物なり。戊辰の役に捕へられて長崎に送られ、維新後京都に預けられし人にして蘭書を読み洋学に通ずる所より、京都府の顧問となりし人なり。當時に於て洋学に通ぜる山本しより訓育を受けたる氏は実に至幸の人と云ふべし。
 明治七年上京義塾に入り十年卒業し、十一年東京より帰る當時京都の有志演説会を開くや、氏客員として演説す蓋し極力京都府の行政を悪罵せるなり。而して其筆記録を出版し正に縲絏るいせつはづかしめを受けんとせしが神戸に走り領事館の雇となりて僅に免るゝを得たり。十二年京都に府会設けられて山本氏其議長となるや氏は書記長の名を以て盲目にしていざりなる覚馬翁を援け萬事を処理す。十五年京都府の勧業課に入りて二十一年まで在職、同年京都陶器会社支配人と也士も二十六年意見の衝突を以て去る。其頃氏は京都に於ける美術工芸家として外国に博覧会ある毎に派遣せられ内国博覧会ある時は必ず又審査官に挙げられ、我国美術工芸の発達に貢献する処甚だ多く、今や京都商品陳列所長として頗る令名あり。
 氏は頗る質実にして超俗の士なり。されば奇行に富み逸話又少なからず京都部徳会の如きは氏の古器物研究より生れ出でたりと聞くに至っては愈々いよいよ出でて愈々面白し、氏の書斎は内外の古器物非常に多く陶器のみにても珍品数百種を蔵せり、又四千年以前の希臘時代の古鉄等もあり、近代欧州美術の参考品を蒐め氏は是等の物に就き一々研究しあれば考古美術の活字引とも称すべき人なり。同好の士は京都に遊ぶの時一応氏の書斎を伺ふも無益に非ざるべし。

ここで気になる記述が目に付いた。覚馬について、戊辰戦争の際に捕らえられ長崎に送られたとあることである。確かに覚馬は長崎に行ったことがあるが、それは戊辰戦争の前であり、捕らえられて長崎に送られたというのは初耳である。確かな資料があれば別だが、どうも記事が間違っているように思われる。
 肝心の覚馬と丹羽との出会いについては、13歳から17歳までの期間ということになるが、新英語学校が開校したのは明治五年(教師はイバンス)、牧畜場が開かれたのも明治5年である(教師はドイツ人ヨンソン、その後アメリカ人ウィード)。覚馬が「英文京都案内記」を出したのが明治6年なので、このあたりの記事は明治5、6年のこととなる。既に新英語学校や農牧講習所で英語を勉強していたことで、覚馬の手伝いができたのであろう。
 実はその時、丹羽はまだ15、6歳くらいである。その若さで出版者として名を出していることをどう理解したらいいのだろうか。明治6年に京都の慶応義塾分校に入学し、明治7年から10年までは東京の慶応義塾に在籍した。卒業後の明治11年以後は、演説家として活動していたらしい。明治12年に覚馬が京都府議に当選し、議長になってからはその手伝いをしたとある。その後、明治15年から21年まで京都府勧業課に勤め、主に京都博覧会に従事していたことも興味深い。もう少し覚馬との接点を知る資料がほしいところである。