🗓 2020年09月12日
吉海 直人
『管見』に関連して、野澤雞一という人物についていささか調べてみた。彼は山本覚馬の『管見』成立において、非常に重要な役割を果たした若者である。盲目の覚馬は、当時17歳の野澤に口述筆記させて、『管見』を仕上げたからである。そうなると『管見』の清書本というか原本は、野澤の自筆ということになる。では彼は一体どんな字を書いたのだろうか。またその後、どんな人生を送ったのだろうか。気になったので、野澤の書簡などが残っていないのか探してみたが、そういった資料は簡単には見つけられなかった。
幸い彼が編集に携わった『星亨とその時代1、2』(東洋文庫)の存在が浮上した。その解説に彼の略伝が掲載されていたので、それを参考にまとめてみた。彼は嘉永5年(1852年)閏2月24日に陸奥国河村郡野沢村(現福島県耶麻群西会津町)の肝煎であった父・斎藤兵右衛門と母・うめの第13子として生まれている。幼名は左武、元服名を九八郎安直と称した。幼少より学問に秀でていたらしく、慶應2年(1866年)に医師・渡部思斎の研幾堂で医術を学んでいる。翌慶応3年、16歳の時に医師になるべく長崎へ向かう途中、京都にいた義兄の小林源次郎の元を訪ねた。そこで会津藩士・山本覚馬が洋学校を開いていることを知り、京都に留まって覚馬の元で洋学を勉強することにした。その際、会津藩士として臨時採用されている。おそらくその時に野澤雞一に改名したのであろう。
ところが翌慶応4年(1868年)、数えで17歳の時に鳥羽伏見の戦いが勃発した。彼は会津藩士ということで正月5日に捕らえられ、覚馬と同じく薩摩藩の二本松邸に幽閉された。そこで師の覚馬に指名され、覚馬の語る建白の口述筆記に従事することになった。もっとも完成した『管見』に、若き野澤雞一の名は記されていない。
その後、野澤は6月には六角獄舎に移され、そこで拷問・虐待などのひどい扱いを受けた。そのため脚気を発症し、足に障害が残ったとのことである。9月の大赦によって12日に釈放されると、明治3年に小松済治(元会津藩士)に従って和歌山の英学校に入る。その後、大阪開成所の寄宿生となった。そこで助教の星亨と運命的に出会う。星は野澤より2歳年長であるが、明治4年には修文館(横浜市)に英語教授(教頭)として赴任している。野澤も小松の斡旋で修文館へ移り、そこで星の食客となっている。その星が陸奥宗光の食客になると、星も陸奥の邸に寄宿している。その間、星が中心になって進めた『英国法律全書』の訳を野澤も手伝っている。
明治5年に星とともに修文館を辞め、大蔵省租税寮に補せられ、横浜税関に勤務している。その星は翌6年英国に留学し、法学を学んで弁護士の資格を取得し、司法省付属代言人第一号となる。野澤は星の仕事を手伝って代言人となり、明治7年にはアメリカのエール大学に留学し、法律学士の学位を取得している。帰国後、弁護士として活動する野澤は、星の妻つなの妹さはと結婚したことで、二人は義兄弟になる。
明治17年に星が官吏侮辱罪で収監され、さらに明治21年に違反・罪人隠匿罪に問われた際は、野澤自ら星の弁護を行っている。翌明治22年、憲法発布の大赦で出獄した星は、早速欧米に遊学する。野澤もそれに同行するが、途中で別れてアメリカのニューへーベン法科大学に留学している。帰国後は神戸裁判所判事となり、銀座に公証人事務所を開設している。翌23年に星が自由党に入党し、衆議院議員に当選すると、野澤も選挙に出馬するが、三回連続で落選してしまう。
義兄の星は衆議院議長や逓信大臣・駐米公使に就任するなど、政治家として名をあげるものの、東京市会議長在職中に刺殺された(享年51)。その星の伝記資料を集成し、『星亨とその時代1、2』(東洋文庫)を刊行したのが野澤であった。彼の死後、『閑居随筆』という本が甥の篠原茂によって発行されているが、覚馬のことは一切触れられていなかった。
関東大震災により銀座の公証人事務所が消失したことで、公証人を辞任。昭和7年7月23日、老衰により死去、享年81であった。若い頃は医師を志して洋学を学び、星と出会ったことで長く弁護士・判事として勤め、新しい日本の法整備に尽力した。これも立派な会津人の生き方であろう。
若い時に覚馬と出会い、明治維新を経験する中で『管見』を口述筆記した経験は、その後の野澤の人生に多大の影響を与えたに違いない。英語を学び法学を学んだのは、まさにその具現であった。その後、星と運命的に出会ってからは、星の後を追い続ける人生であった。もう少し野澤の資料が発掘され、彼の人生に光が当たることを望みたい。