🗓 2020年09月05日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

前に「山本覚馬と京都府」のコラムを書いたが、もう少し『管見』について詳しく述べてみたい。戊辰戦争の際、薩摩藩(二本松)邸に幽閉されていた盲目の山本覚馬が、当時17歳の野澤雞一に口述筆記させた『管見』は、明治維新以降の近代日本の指針として、明治政府の施策に活用されたといわれている。もしそれが本当であれば、『管見』は何度も書き写されているだろうし、新政府の高官たちに読まれたのであれば、もっと多方面から評価(諸文献に引用)されていてもおかしくあるまい。それにも関わらず、写本がほとんど残っていないし、引用された形跡も見当たらない。ここから導き出されるのは、あまり読まれていないし評価もされていないという結論である。
 政府の評価とは別に、『管見』をまとめた覚馬自身は、後に京都府顧問(嘱託)に就任することで、戊辰戦争によって荒廃した京都の復興・近代化を具現化していく。それこそが『管見』の有効性を実証した具体例と考えられるので、むしろ京都の近代化における『管見』の果たした役割について、さらなる検証が必要であろう。
 そんな重要な資料とされているにもかかわらず、これまで『管見』の写本は、同志社に所蔵されている「山本覚馬建白」の一冊だけしか知られていなかった。平成30年(2018年)は、『管見』が著されてからちょうど百五十周年であったが、その翌年に奇しくも写本が二冊発見された。一冊は防衛庁に所蔵されている本で、これは伊藤哲也氏が発見・報告したものである。もう一冊は私がたまたま古書店で安く購入したものである。これによってようやく本文異同などの比較が可能になった。
 この『管見』の内容については、青山霞村氏・杉井六郎氏『改訂増補山本覚馬伝』に短くまとめられているので、それを紹介しておきたい。

(山本先生は)王政維新国家の経営は今日の大急務であるといわれたが、その願い(島津公との面会)は果たされなかったから、胸中の政見を口授して野澤雞一に筆記させて、これを薩州公に手わたした。(本書)付録の「管見」はそれである。
 この意見書は先生がある時は臥しながら、ある時は蒲団にもたれながら一句々々をのべて筆記させ、つぎにそれを読ませて訂正し、さらに添削するなどして脱稿したもので、えんえん数万言、政治、経済、教育、衛生、衣食住、風俗、貿易諸般の綱目にわたっている。そのころとしては珍しい卓抜な意見も少なくない。これらの識見は混乱の世の中にあって、あるいは読書から、あるいは交遊から得られたものである。先生は西周、津田真道、神田孝平らの新進の学者と交って西洋の事情に通じ、国士ともいうべき諸藩の名士とも往来せられたから、その思想は当時の封建思想を乗り越え、専ら対外的見地からその政見をのべられたのである。

(57頁)

この『管見』の成立事情を勘案すると、まず明治政府(薩摩藩主)に提出された原本ともいうべき提出本(清書本)があったことが考えられる。これが新政府側で何回か書写され、様々な人に読まれていてもおかしくなかろう。しかしながら原本どころか、その転写本の存在すら明らかにならないままであった。また山本覚馬あるいは野澤雞一の手元にも、草稿本あるいは手控え本が保管されていたと考えられる。覚馬亡き後、その本は八重が所持していた可能性も存する。
 同志社大学に所蔵されている「建白」は、奥書によって栗原只(唯)一、醍醐忠順本(慶応4年8月写)、島津久徴本(明治2年6月写)と三度写されていることがわかる。最後の明治二年に書写された写本(建白)こそは、同志社大学所蔵本である(それ以前の栗原書写本・醍醐書写本の所在は未詳)。
 その同志社大学本にしても、その存在がわかったのは遅れて昭和57年のことであった。そのため「建白」がいかなる経緯で島津久徴から同志社に伝わったのかもわかっていない。それ以前は青山氏『山本覚馬伝』所収の翻刻でしか見られなかったわけだが、ようやく実際に写本(同志社本)が参照できることになり、両者の比較検討が行なわれた。その結果、青山本には「撰吏」項が抜けているなど、本文にいささか欠落のあることが明らかにされている。そして新たに二本の写本が加わったわけだが、これによって『管見』の本文の精度はさらに高くなるであろう。
 なお、写本発見とほぼ同時期に、同志社女子大学史料センター叢書Ⅳとして『山本覚馬建白「管見」』が発行された。新出写本との校合が行われていないのは惜しいが、この本には現代語訳・英語訳が付いており、ようやく研究の基礎ができたといえよう。

*「八重講座番外編」として、八重はもちろんのこと、覚馬周辺に埋もれている人物やできごとについて、なんとか10回分の原稿を書いたので、もうしばらくは連載できそうである。