🗓 2020年08月29日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

明治6年(1873年)のこと、京都では3月13日から6月10日までの90日間、第2回京都博覧会が開催された。これは幕末に廃れた京都の復興(外国への製品売り込み)が目的である。そのため覚馬は、ドイツ(レーマン兄弟)から取り寄せた最新式の活字印刷機を使って、外国人観光客用に英語の観光ガイドブック「英文京都案内記」(銅版画入小冊子)を作らせている。これは日本人による初の英語で書かれたガイドブックである。その経緯については、

英文の案内記の原稿は先生の娘(のちに横井時雄氏夫人)の婿養子にするつもりで山本家にいた喜三郎という人と丹羽氏(圭介)とが、美濃紙に筆で書いたもので、活字は先生の娘(本当は妹)八重子(のちに新島襄先生夫人)が拾った。解版も八重子と丹羽氏の妹とがそのことにあたった。印刷された案内記は四十八頁で洛中洛外の絵入りである。当時は内務省でなく文部省の認可を経て発行したので、著者は山本覚馬出版社者は丹羽圭介である。

(『改訂増補山本覚馬傳』99頁)

と記されている。印刷機の活字(アルファベット)を拾ったり解版したのは、京都に来てすぐに英語を学んでいた八重と丹羽の妹英(ひら)だった。その八重のことを「恐らく日本最初の英文植字工であった」(同100頁)としている。このあたりは兄弟の息がぴったりあっていたようだ。

もっとも、盲目の覚馬がどこまで関与しているのかはわからない。前著には「文章は山本覚馬」(100頁)とあるが、主体的に動いたのは丹羽氏のようである。そのことは丹羽氏自身、

山本覚馬氏の指導により私が主としなって拵えたものであるが、もちろん京都最初の欧文活版印刷であった。

(大橋喬編『京都博覧協会史略』)

と証言している。要するに覚馬は代表者名ということのようである。

この「英文京都案内記」は、その後も毎年の博覧会開催に合わせて何度も増刷されている。これまでほとんど研究されることがなかったので、書誌的な研究はずっと放置されていた。そのため漠然と、同志社大学が所蔵している本が初版だと思われていたのだが、あらためて付録の地図を見ると、鉄道の路線と京都ステーションが描かれているので、これは鉄道が通った明治10年2月10日以降の改版であることが明らかになった。
 また石田才治郎の銅版画が使われているということで、大日本スクリーン製造株式会社(才治郎の子孫)が同志社本を底本にした複製を作っている。その際、社会情勢を配慮してか「耳塚」のところをカットしているが、そのことに気付いている人もほとんどいないようである。
 幸い銅版画のコレクションが宇治市歴史資料館に寄贈され、その企画展示が行われたことで、複数の版があること、表紙のタイトル名や銅版画・英文解説などに改定が加えられていることが明らかになった。ただし再版以後の作業に、どこまで覚馬や八重が関与したのかはわかっていない(英文活字も異なっている)。
 具体的な作業としては、銅版画を製作していた石田旭山(才治郎)印刷所による改訂出版であったろう。それを担当したのは、京都府に勤めて長く博覧会の仕事に従事した丹羽圭介であったかもしれない。ただし丹羽が勤めたのは明治11年以降なので、その間の修正は印刷所単独あるいは京都博覧協会が行っていたことになる。
 なお、覚馬の娘みねの婿養子になる予定であった喜三郎という人物については、会津出身であること以外何もわかっていない。ということで、英文京都案内記にどの程度関わっていたのかも謎のままである。
 縁というのは不思議なもので、明治8年の第4回京都博覧会開催の折、八重が活字を拾った英文京都案内記を携えて、新島襄が京都へやってきた。先に京都へ来ていた宣教師ゴードンは、八重に英語で聖書を教えていた。その家に襄がやってきたのである。これが二人の最初の出会いなのだが、考えようによっては「英文京都案内記」が二人を結び付けたともいえそうだ。

【挨拶】

昨年から毎週連載してきた八重講座も、今回で50回目を迎えました。最初から50回くらいはなんとか書けるだろうと思って初めた講座です。ここまでくると、もはや手持ちのネタも尽きてしまったので、これをもって八重講座は終了させていただきます。一年間お付き合くださりありがとうございました。
 この八重講座を御覧になって、みなさまの八重や覚馬についての知識や関心が増加しているとしたら、講座を連載してきた甲斐があるというものです。これからはみなさんも八重の語り部として、顕彰会の広報などに御尽力ください。(吉海直人)