🗓 2020年08月22日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

現在、同志社の創立記念日は11月29日となっている。それは1875年(明治8年)の11月29日に、同志社英学校の開校祈祷会が行われたのを記念してのことである。学校開設の認可は9月4日に下りていたが、認可の日ではなく授業を開始した日(祈祷を行った日)をもって同志社の創立記念日としているのである。
 同志社女子大学も当然その日を創立記念日としているのだが、なにしろ英学校(男子校)は女子の進学が認められていなかったので、女子部としての創立記念日が必要とされた。かつては明治10年4月21日をもって女学校の創立記念日としていた。それは「同志社記事社務」18号に、「明治十年四月廿一日柳原邸内に於て女学校開設す」とあることによる。それは「同志社女学校期報」7にも、

  我校創設の年月に就ては聊か疑はしき所もありしが、故新嶋総長の手記より写し取りたる記録に「明治十年四月廿一日柳原邸内に於て女学校を開設す」との明文あれば、最早疑ふべくもあらず。

(10頁)

とあるのが根拠となっている。

実のところ、同志社分校女紅場の開業願が提出されたのは明治10年4月23日であり、それが認可されたのは4月28日なので、ここでも日付が微妙にずれている。あるいは英学校のように、4月21日に授業・開校祈祷会が行われたのかもしれない。
 同年8月2日、開業したばかりの女紅場を女学校と改称したいとの願が提出され、9月21日にすんなりと認められた。だからこの9月21日を女学校の創立記念日とすることもできたはずである。しかしこの改称によって、創立記念日が変更されることはなかった。
後日、女学校の創立をもう少し遡らせることが行われた。というのも、正式認可の前に、女子塾が開かれていた事実があるからである。これには2つの説がある。1つは新島八重とドーン夫人の2人で始めた私的かつ小さな塾である。そのことは八重の回想に、

  明治九年の頃でありました。私の宅が今の第一高等女学校の南東の角にありました時、某宣教師と談話の末、女学校を始ては如何であろうといふ事になり、取敢へず私の宅で開きました。其時の生徒が三人でありまして、妙な事に其中に九歳になる男子もありました。其時某宣教師が歌を教える、私が第一リーダーを教えるといふ様な始末で、之が今の同志社女学校の基でありました。

(「女学校期報」24)

と記されている。八重は自宅(借家)で私塾を立ち上げていたのだ。男子のいる女学校などありえないが、これを「同志社女学校の基」とすると明治9年の春(2月)が出発点となる。

 その私塾がすぐに消滅した後、今度はデイヴィスが住んでいた柳原邸で、改めて女子塾を開くことになった。その一翼を担うスタークウェザーは、その年の4月に入洛し、「五月二日から毎日授業を始めた」と手紙に記している。これによれば5月2日が京都ホームの開始日ということになる。ただしこれは、彼女自身が日本語の勉強を本格的に開始した日とも考えられている。その先生はもちろん八重であろう。
 12名の生徒を集めて本格的に女子塾が開校されたのは、やはりスタークウェザーの手紙によって10月24日とされている。この10月24日こそは、現在の女子大学のもう1つの創立記念日となっている。何をもって創立とするかによって、このように複数の創立記念日が発生してしまうのである(どれも間違いではない)。
 ついでながら八重は、スタークウェザーと協力して女学校の運営にもあたっていた。そのことは『同志社百年史資料編二』の末尾資料(英文)に、「Mrs.Neesima, also, joined Miss Starkweather as a teacher in this school.」と見えていることからも明らかである。また京都府の「同志社視察之記」にも、何度か八重の名前が出ている。
 第6回視察之記(明治12年12月)には、「女教師スタークウヱザル及び教員加藤某其他社長新島襄ノ妻并ニ校中取締女ナル襄ノ外姑アリ」と記されているし、第14回(明治13年10月28日)には、「聖語ノ短冊ヲ掲ゲタル壁間ニ向ヒ洋琴ヲ弾ズ。新島襄ノ妻ナリ」と見えている。これより前の10月13日、襄と八重は岡山にいた。その後、襄は熊本まで足を伸ばしているが、八重は岡山で襄と別れて京都に戻り、視察の一行を迎えている。
 また第22回(明治14年6月21日)には、「第三時ヨリ女礼ヲ試ム。教師ハ同志社社長新島襄ノ妻某ナリ」と出ている。かつて八重は女紅場で小笠原流の礼法を教えた経験があるので、女学校でも教えられたのである。もちろん八重が正式かつ継続的に教えていたとは断言できない。というのも、正式な提出書類に八重の名前が記されていないからである。しかしこの視察之記によって、少なくとも明治14年までは女学校で教えていたことがわかる。「同志社校友同窓会報」61にも、「女学校開校後は同所にて、スペリングを教授されたり。同校が現在の場所に移りてよりは久しく小笠原流の作法を教授せらる。」とあった。
 こうしてみると八重は、私塾→女子塾→女紅場→女学校という女学校変遷のすべてに関与していた創設期の最重要人物だったといえる。八重は英学校(同志社大学)よりも、女学校(同志社女子大学)との結びつきの方がずっと深かった。それは今も変わらない。