🗓 2020年08月15日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

八重は会津藩が名誉を回復した昭和3年に多くの歌を詠んでいるが、それ以外にも節目の折には必ず歌を詠じている。また晩年には、短冊などへの揮毫を依頼されることも多かったようで、そのため同じ歌であっても、染筆した年月の異なるものが多数存している。
そこで取りあえず八重の歌の集成を試みていたところ、「同志社同窓会学友会期報」55号(1930年12月)に、八重の歌が4首もまとまって掲載されていた。八重はかつて同窓会の会長を務めていたことで、編集者から記事の依頼があったのだろう。そこで近況紹介として、次のような文章をしたためている。

 新島八重子刀自
早当年もこほろぎのこゑもあわれをつぐる頃と相成あいなりました。御皆々様方、校の為に相不変あいかわらず御つくし被遊あそばされ候こと、真に難有ありがたく嬉しく、かげながら感謝致居ます。小妹も何かしたゝめと仰せ候へども、何も申上候ことの葉も無御座ござなく当年四月末故郷若松に久々にて参りました。
 若松のわがふるさとに来てみればさきだつものはなみだ成けり
 東山ゆみはり月はてらせどもむかしの城は今草のはら
 たらちねのみはかのあとをとふこともけふをかぎりとなくほとゝぎす
 老ぬれどまたもこえなむ白河のせきの戸ざしはよしかたくとも
小妹は本来うたよみに不在あらず、只々出たらめ御笑ぐさに
   昭和六年十月    新島八重子(八十六歳)

この日付には疑問がある。末尾に「昭和6年10月」とあるが、肝心の「期報」55が出版されたのが昭和5年12月なので、「昭和6年」は「昭和5年」の単純な誤りだと思われる。そのことは八重の年齢が「86歳」となっていることからも察せられる。昭和5年こそは数えで86歳だからである。そうなると文面にある「当年4月末」というのも、昭和6年4月ではなく昭和5年4月ということになる。
幸い福島県立葵高等学校(旧会津高等女学校)には、

明日の夜は何国の誰かながむらんなれし御城に残す月影 八重子 八十六歳拙筆

という書が所蔵されているが、「八十六歳拙筆」とあるので、昭和5年の会津若松来訪(3度目)の折に書かれたものということで符合する。昭和5年に八重が会津若松を訪問していることは、「新島八重子刀自懐古談」(昭和7年5月)に、

一昨年も国へ行って墓へ行きますと、自分が砲術を教へた子供の石碑が一番に眼につきます。

と記されていることからもわかる。同様のことは昭和7年6月17日の東京日日新聞福島版の八重逝去記事によっても確認できる。その記事の中に、

郷里若松には滅多に帰省しなかったが、会津高等女学校では修学旅行の折には必ず京都に老刀自を訪れ、一昨年四月下旬刀自が帰省の折も同校で会津戊辰戦争当時の思ひ出を講演し、八十六歳の老人とは思はれない元気であった。【写真はその当時揮毫し同校に寄贈したもの】

と書かれているからである。さらにここから、会津高等女学校で講演していた事実も浮上した。ただし会津高等女学校の修学旅行の折に生徒と八重が会ったのは、昭和3年以外には知られていない。

 なお、和歌4首の中の3首目に「たらちねのみはかのあとをとふ」とある。そのまま訳せば、母(佐久)のお墓参りをした際に詠まれた歌ということになる。しかし佐久の墓は京都にあって、会津若松にはない。これはどうやら伝統的な「母」にかかる枕詞ではなく、それだけで「親」(父権八)を意味する用語のようである。父の墓なら会津若松にある。
また八重は9年前に喜寿の記念として、

戊辰長月二十あまり三日さしのぼる月のいとさやかなるを見て 喜寿 八重子
明日の夜は何国の誰かながむらむなれし御城に残す月かげ (白虎隊記念館所蔵)
心和得天真 新島八重子 七十七歳 (福島県立博物館所蔵)
日々是好日 新島八重 七十七歳 (杉原早苗所蔵)
勇婦竹子女史 七十七 新島八重子 (岩澤氏所蔵)

など、会津若松でかなりの数の和歌や書をしたためている。大正10年・昭和3年・昭和5年は、八重にとっても会津若松にとっても記念すべき年だったと言える。少なくとも八重自筆の書幅や短冊が大量に書かれていることに間違いはなさそうだ。