🗓 2020年08月08日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

「八重の桜」でいきなりマスコミの注目を集めた学校がある。それは福島県立葵高等学校だ(「葵」は旧藩主松平家の家紋にちなんだもの)。どうしてかというと、そこに八重の自筆の書が4幅も所蔵されていたからである。現在は共学だが、葵高校の前身は会津高等女学校だった。そのもっと前は、クリスチャンである海老名リンが設立した私立若松女学校である。会津藩出身の八重とリンは、キリスト教と女子教育でも共通していたのだ。
昭和3年、戊辰戦争からちょうど干支が一回りした年の5月16日、会津高等女学校の生徒が修学旅行で京都にやってきた。八重は会津藩に関係の深い黒谷西雲院で生徒達に訓話を行い、「本当の美人は心の美しい人のことだ」と語った。当時の八重は、単なる新島襄の未亡人ではなかった。日清・日露戦争の折に日赤の篤志看護婦として活躍したことが認められ、勲六等宝冠章を授与された立派な女性だったのである。
 それが縁になったのであろう、八重と会津高等女学校の交流が行われた。同年9月28日に、松平容保公の孫娘勢津子姫と秩父宮殿下との御成婚が行われた際、それを記念して会津高等女学校では、「歴史的書画展覧会」が開催された。その展覧会に、八重の書が3幅展示されている。それは次の3幅である。

萬歳々々萬々歳 八十四歳八重子
美徳以為飾 八十四歳八重子
ふるさとの萩の葉風の音ばかりいまもむかしにかはらざりけり 八十四歳八重子

この時八重は数えで84歳だった。展覧会終了後、この3幅はそのまま女学校の所蔵となった。このうちの「美徳以為飾」については、別のコラムで扱っている。「萬歳々々萬々歳」については、最近になって風間健氏が同じものを所蔵されていることが明らかになった。八重はこれを2枚書き、1枚を女学校に送り、1枚を風間久彦(健氏の父、会津出身)に与えていたのである。できることなら2枚並べて展示してみたいと思っていた。それが今年の5月25日からの遺墨展で叶えられた。

その2年後の昭和5年4月(数えで86歳)に八重が会津若松市を訪れた際、やはり会津高等女学校で講演を行っている。その折に八重のもっとも有名な和歌、

明日の夜は何国の誰かながむらんなれし御城に残す月影 八十六歳拙筆

が揮毫され、やはり女学校に寄贈された。そんなわけで葵高校には、八重自筆の書が4幅も所蔵されているのである。公立高校としてはきわめて珍しいケースだと思われる。

昭和7年に八重が亡くなった後、この書のことは長い間忘れられていた。それがひょんなことから、再び日の目を見ることになった。そのきっかけの1つは、どうやら本学の森田潤司元学長が作られたようだ。というのも、2007年に会津若松市で開催された同志社の校友同窓会に出席された森田先生は、たまたま葵高校の生徒さんが同志社女子大学に入学するということから、葵高校にある八重の書が話題になったとのことである。翌日、早速その書を見学された森田先生は、Vine45に「きずなの探訪」としてそれを紹介されている。森田先生は「きずなは今も守られています」と結んでおられるが、もし森田先生が葵高校を訪れていなければ、本学との絆は結べていなかったかもしれない。
 そういった経緯があったので、「八重の桜」放映にちなんで、加賀前学長を含めた新島八重研究会のメンバーは、葵高校を表敬訪問した。私はその折に鎌田先生や岩澤信千代さんにはじめてお目にかかった。
「八重の桜」はあっという間に終了したが、葵高校そして会津若松市との縁はこれからも長く続くことを願っている。せっかく八重と森田先生がつないでくれた大事な絆であるのだから。
そんな縁が導いたのか、私の長男は会津若松にある高校に就職し、家庭を築いている。