🗓 2020年08月01日
吉海 直人
最愛の夫・新島襄が亡くなったことは、八重にとっては大きな痛手であった。しかしながら八重は襄の志を継ぎ、残りの人生を公共奉仕に捧げた。襄の教え子達も、襄の遺志を継承して同志社を守っている。その一年後の襄の命日から、毎年襄を偲ぶ会が催されるようになった。八重は昭和2年の記念会の席上で、
(『追悼集Ⅴ』287頁)
と述べている。これによれば、八重は37回中35回も出席していたことになる。
襄の記念会は、京都だけでなく遠い安中教会でも催された。特に10年ごとの会は特に盛大に行われたようである。その折にはもちろん八重にも案内(招待状)が届いた。最初の10年忌(明治33年)には出席できなかったが、その代わり八重は心をこめて手紙をしたためている。その手紙は大久保真次郎によって席上で読みあげられた。そのことは「上毛教界月報」16号に、
あづさ弓十年のはるのけふもまたかへらぬ人をしたひぬるかな
うぐひすの初音をつぐるこのごろは昔しのはるをしのばるるかな
此歌は二周年の折りによみしが今も同じ思ひ
大磯の岩にくだけるなみの音のまくらにひびく夜半ぞ悲しき
述懐
打よするうき世のなみはあらくともこころの岩はうごかざりけり
(明治33年2月19日)
と書かれている。八重の襄への思いが感じられる文面である。
次の20年忌(明治43年)には八重も安中を訪問しており、その席で自らしたためた「亡愛夫襄発病ノ覚」を読みあげている。この年、八重は襄の「いしかねも」歌の複製を作り、関係者に贈呈した(風間久彦氏も所蔵している)。次の30年忌(大正9年)のことはよくわからないが、八重は自宅で襄の遺品展を開催したようである。翌大正10年には安中を訪れ、そこで襄の函館での逸話を話している。これは記念会開催が1年遅れたのかもしれない。というのも、安中では襄の30年忌を記念して、石造りの立派な会堂(教会)が建立されたからである。
そして40年忌(昭和5年)、これは八重が亡くなる2年前のことであった。この時、八重は襄のことを和歌に詠じている。幸い「同志社同窓校友会報」39号にその時の八重の和歌が掲載されていた。
あづさら青来にくれば大磯の岩打つ波の音ぞなつかし
このうち2首目の「あづさら青」は意味不明である。和歌の常識から判断すると、「あづさら」は「あづさ弓」の「弓」を「ら」と誤読したのだろうと推測できる。そうなると「梓弓」は「はる(張る)」を導く枕詞だから、「青」も「春」の方が「張る」の掛詞としてふさわしい。要するに「あづさ弓春」であれば意味はすっきり通じる。
幸いなことに、風間久彦氏宛の八重の書簡が公表されたことで、この問題は解決した。八重はその書簡の中に亡夫襄40年祭の折に詠じた歌を、
あづさゆみ春たち来れば大磯の岩うつ波の音ぞなつかし
と記していたからである。これで「あづさら青来に」は「あづさ弓春たち」であることがはっきりした。またこの折、計3首の和歌が詠じられていることもわかった。
なお大正13年12月に大正天皇の貞明皇后が同志社に行啓された際、八重は皇后との単独謁見を許されている。その折のことを八重は「女学校期報」50号で、
と、襄のことを引き合いに出している。襄は八重の心の中でずっと生きていたのだ。